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『慶良間列島渡嘉敷島の戦闘概要』 渡嘉敷村役所蔵。渡嘉敷村遺族会編一九五三・三・六。伊敷論文よりの復元版。 大阪地裁の公判において『渡嘉敷島における戦争の様相』は原告側証拠甲B23及び被告側証拠乙3として提出された。また、『慶良間列島渡嘉敷島の戦闘概要』は被告側証拠乙10として提出された。参照:書証一覧 はじめに この記録は今次大戦における沖縄戦の一端渡嘉敷島における戦聞の概要を収録したのであるが 沖縄本島と切離された孤島の戦線には幾多様相を異にするものがある 当時村長米田惟好氏 役所職員 防衛隊長屋比久孟祥氏等の協力を得て纒めたものでありますが 過去を省みて如何に戦争が罪悪であるかを吾々は実際に体験し そして今後幾多反省すべきことがあること(※1)を痛感した 将来この社会において再びこの様な事を繰返すことのないよう 永遠に平和を愛好し人類の幸福と繁栄を自由世界に樹立することを願って止まない 一九五三年三月二十八日渡嘉敷村遺族会 昭和十九年九月二日七千屯級の汽船が慶良間海峡、阿佐港外に停泊してゐたその船を目標に友軍戦闘機三機が編隊で毎日急降下演習が続けられていた(※2)、この汽船は兵器弾薬を南方方面へ輪送途中寄航したものと住民は想像していた。 (引用者注)阿佐港は座間味島東側の湾内 同 九月七日 沖縄憲兵隊の軍曹が来島した。その目的は渡嘉敷の漁船を軍需部の漁撈用に徴用することである。 鰹漁船、嘉豊丸、源三丸、神祐丸、信勝丸の四隻は乗組員一三〇名と共に九月八日午前四時を期して阿波連港へ集結を命ぜられ同日午前十時那覇港へ出港した 旬日を過ぎずして村営航路嘉進丸も軍需物資輸送の目的で徴用され那覇、久米島間の輸送任務についた、軍は秘密保持のため移動性のある船舶の慶良間各港への出入を堅く禁止した為渡嘉敷住民は全く孤立状態に置かれた、 同 九月九日午前八時南方行きと思ってゐた汽船から渡嘉志久に小型舟艇が近づいて来た 驚いたことは(※3)武装した陸軍の兵隊が上陸したのである。或る兵隊に尋ねたら渡嘉敷駐屯するとのことである 部隊は鈴木部隊で兵員一千名基地隊と呼ぱてゐた 鈴木部隊は渡嘉志久へ上陸を完了し同日渡嘉敷部落へ移動した、 村の国防婦人会は部隊歓迎のため総動員で湯茶の接待や慰労に努めた、 兵員の中には長途の輸送で疲労した為に数多くの下痢患者(※4)を続出する有様であった、部隊の宿舎には住民の住家があてがわれた早速鈴木少佐の要請により男女十六才から六〇才までが軍に協力することになり九月十日から陣地構築作業に従事せしめられた、 (引用者注)7,000トンもの大型輸送船が突然やってきたとは驚きです。1千名もの海上挺進第三基地大隊の将兵を、沖合い停泊で1週間も待たせ、泥縄の上陸準備をした上で、渡嘉敷島西側の渡嘉志久に上陸してきたということです。この部隊はいったいどこで編成され将兵はどこから乗船してきたのでしょうか? 同 九月二十日、特幹船舶隊と称する部隊が赤松大尉を隊長とし兵員一三〇名と舟艇百隻を以って来島 渡嘉志久と阿波連に駐屯し日夜攻撃演習が秘密裡に行われていた。 数日後には本村から徴用された漁船は漁業根拠地を渡嘉敷港に変更された為全船帰港し連日軍の需要獲得に従事した、 (引用者注)(引用者注)赤松大尉を隊長とした海上挺進第三戦隊の訓練、編成、移動の経緯は、赤松資料:「戦史資料 昭和二十一年一月九日調整」参照のこと 同 十月十日那覇上空は、絶好の秋日和である慶良間から沖縄本島が手に取る様に見渡しことができる 午前九時頃平素と異った様子が見受けられた、時には高射砲の弾雲が見られるので鈴木部隊本部に問い合すと友軍の対空射撃演習だとのことである、 村民は安心して平素のように陣地構築に従事した、 漁撈班においても嘉豊丸が出漁した、源三丸神祐丸、が出漁準備を整えている頃前島前方の上空で数百の飛行機が乱舞するの(※5)が見られたかと思うと間もなく八千米の上空に四機編隊の銀翼が現れた、何時もとは異った爆音に不案を抱き乍ら眺めていると 飛行機は機首を下げて底空すると(※6)同時にダヽヽヽと機銃掃射が始まった はじめて敵機の空襲と知った村民は足の踏み場を知らず上を下への大混乱に陥った、殆どの大人が陣地構築のため留守である、老人は幼児をかヽえ教員は学童の手を引き右往左往(※7)であるために待避に長時間を要した 敵機の空襲はますヽヽ猛烈を極め機銃掃射と共に小型爆弾が投下された、幾度となく波状空襲が繰返へされる中に嘉豊丸は東海岸で餌料採捕中に爆沈され機関長古波蔵鉄彦は戦死し他の乗組員は辛うじて生命を得ることができた、 源三丸神祐丸は出漁することができず港内において炎上沈没し軍用船(えぴす丸)も爆破炎上し二名の戦死者を出した 村営航路嘉進丸は軍需物資を輸送しての久米島からの帰路、渡名喜島沖合で空襲を受け撃沈され 機関長金城連平、事務長小嶺賀明の命を奪った、船長古波蔵良秀は三日間漂流の末渡名喜島へ辿り着き生還した、 全漁船を失った乗組員は翌日から陣地構築作業に従事する者や各高地に設けられた監視哨勤務等日夜軍務に就くことになったが 状況は日毎に悪化し島の東海岸には暗夜に乗じ敵潜水艦の接近浮上する姿が度々見受けられるようになった (引用者注)10.10空襲で全漁船を失ったとは驚く。島は産業を失ったに等しい。情報の入手ができない完全に孤立した存在となった。以後物資は軍の補給に頼ったのだろうか。しかし軍の物資補給がやがてなくなれば、駐留部隊の将兵の分まで細々と自活を強いられる村民に負担がのしかかる。 同十月下旬 今まで自家通勤で陣地作業に従事してゐた、七十九名の者に防衛隊としての召集が下された、兵舎には村の国民学校が充てられ(※8) 初年兵勤務が始められたが(※9)教練訓練ではなく専ら壕掘作業に従事せしめられ 昭和二十年の元旦を兵舎で迎えた (引用者注)渡嘉敷島の防衛召集について明確な表現がなされている。召集された防衛隊員は正式な軍人=二等兵として入営したのである。 サイパン島陥落後戦況は益ヽ悪化し、沖縄部隊へ入隊する現役兵の送り出しにも困難を極めた 学童も率先して軍の作業従事し 婦人会や女子青年会員は軍の炊事班に徴用された、 いよヽヽ軍の防衛陣地や壕も大方完成し舟艇の待避壕や海岸に至る枕木も施設も終へ舟艇百隻は橇の上に乗せられ出撃の準備は完了した。 昭和二十年二月下旬 渡嘉敷島の陣地構築が完成すると間もなく基地隊である鈴木部隊は整備中隊と通信隊の一部(※10)と赤松隊長が率いる特幹隊を残して沖縄本島防衛のため島尻地区へ移動のであるが これと前後して水上勤務中隊と称する朝鮮人軍夫二二○名が楠原中尉を隊長として来島し任務についた、 鈴木部隊移動後 村出身の防衛隊員は赤松隊長の指揮下に属した、 (引用者注)「村出身の防衛隊員は赤松隊長の指揮下に属した」という表現は、軍隊組織としては当然のこと(赤松元戦隊長自身も自認している)。しかし集団自決裁判の原告とその代理人弁護士或いは秦郁彦氏などは、防衛隊があたかも戦隊とは指揮命令系統が違う「民兵」であるかのような荒唐無稽な主張をしている。 昭和20年三月二十三日午前五時空襲讐報が発令された、事態は愈々悪化し早朝からグラマン機の波状攻撃が間断なく続けられた B二九と思われる大型機の編隊も再三飛来し爆音は山谷にこだまし耳をつんざく凄しさ(※11)である。午前八時半村役所郵便局が爆撃され 続いて防衛隊の兵舎である国民学校が爆破炎上した村民の住家も大半焼失した 伊野波診療所長外十名は村役所附近の壕に待避中至近弾のために重症を負ふた。 空襲が一時止んだので住民は兼ねて構築した谷間の待避所へ避難を急いだ 平素の防空訓練も実戦にはその甲斐なく 敵機の独占場となり明けて二十四日 二十五日も空襲は続き美しき緑の山河は火の海と化し 夜空を真紅に染めた、 祖先伝来幾百年住みついた吾が郷里も今は戦場と化したことを思う時唯胸に迫るものを感じ涙さえ出すことの出来なものがある(※12) 三月二十五日(※13)未明米軍は阿嘉島に上陸を開始したが間もな く慶良間海峡には潜水艦を伴った艦隊が浸入し如何にも友軍を見くびったかの如く悠々と投錨し渡嘉敷陣地への攻撃を開始し またヽく間に山谷や部落は昔の面影を止めざる焼土と化した、 午後後十一時赤松隊長は特幹隊員に出撃準備の命令を発した 夜空に敵艦砲の落下も、ものかわと防衛隊員七十余名、男女青年団員百余名壮年団員、婦人会約七十名が協力し、舟艇百隻は待避壕から引き出され 二十六日午前四時渡嘉志久、阿波連の海岸にその勇姿を揃へることができた 気の早い元気旺盛な特幹隊員の中には勇躍乗船しエンヂン音も高々と敵艦撃沈に胸を躍らせ出撃の命令をいまかヽヽと待った(※14)ゐた (引用者注)出撃準備は島民も総動員であったことがわかる。曽野綾子『ある神話の背景』では、島民の奮闘はボヤケた表現だ。 防衛隊員新城信平上等兵以下八名は機関銃をかヽえて援護射撃の陣地についた、 東の空は白みつつあり出撃の機を失ひつヽありながら赤松隊長は出撃命令を下さず 壕の奥深く待避したまヽ全く戦闘意識を全く失ったかに思われ百隻の舟艇は出撃の勇姿を揃へたまヽ夜明けとなり敵グラマン機の偵察に会った、 隊長赤松大尉は何を考へたか まるで気でも狂ったのか 突然全舟艇破壊命令を下した 特幹隊員はたヾ呆然としてゐたが 至上命令に抗することも出来ず既に出撃の時期を失しては如何ともし難く隊員は涙を呑んで舟艇の破壊を実施した 舟艇を失った特幹隊員は本来の任務を完うすることができない為 兼ねて予定された西山の奥深く待避し赤松隊の持久作戦が始まったのであるが 陸士出の赤松隊長は卑怯者の汚名を着せられても致し方ない状況である (引用者注)出撃準備に総動員で協力奮闘しただけに、出撃中止は島民にとっても大きな落胆だったのだろう 当時船舶団長三宅少佐も座間味村を抜け出し渡嘉敷へ退避し赤松隊長と行動を共にした (引用者注)船舶団長は大町茂大佐。随行者に三池少佐という人物がいて彼は渡嘉敷島からの脱出に失敗して赤松大尉と同道してたので勘違いしたのだろう。部隊幹部の名前は島民らには知らされてないようだ。 昭和二十年三月二十六日 敵は海空援護の下に渡嘉志久 阿波連より上陸を開始したが(※15)赤松隊は応戦の意志は勿論なく、武器 弾薬を放棄したまヽ隊長以下全将兵が西山陣地に引っ込んた為敵は完全にこの島を無血占領することになった、 昭和二十年三月二十七日 夕刻駐在巡査安里喜順を通じ住民は一人残らず西山の友軍陣地北方の盆地へ集合命令が伝えられた、その夜は物凄い豪雨である 米軍の上陸は住民に生きのびる場所を失わしめ ひたすら頼るは赤松隊のみであると信じ ハブの棲む真暗な山道を豪雨と戦いつヽ 子を持つ親は嬰児を背に負い 三ツ子の手を引づりながら合羽の代りに叺や莚をまとい 老人の足を助け乍ら弾雨の中を統制もなく西山へたどり着いた、暗闇の谷間は親、兄弟を見失った人々の呼び声がこだまし、全く生地嶽(※16)の感である 間もなく兵事主任新城真順をして住民の結集場所連絡せしめたのであるが 赤松隊長は意外にも住民は友軍陣地外(※17)へ徹退せよとの命令である 何の為に住民を集結命令したのかその意図は全く知らないまヽに恐怖の一夜を明かすことが出来た 昭和二十年同三月二十八日午前十時頃住民は友軍の指示に従い軍陣地北方の盆地へ集ったが島を占領した米軍は友軍陣(※18)北方の約二、三百米の高地に陣地を構へ完全に包囲態勢を整え 迫撃砲をもって赤松陣地に迫り住民の終結場も砲撃を受けるに至った 時に赤松隊長から防衛隊員を通じて自決命令が下された、 危機は刻々と迫りつヽあり 事こヽに至っては如何ともし難く全住民は陛下の万才と皇国の必勝を祈り笑って死なう(※19)と悲壮な決意を固めた、 かねて防衛隊員に所持せしめられた手榴弾各々二個が唯一の頼りとなった 各々親族が一かたまりになり一発の手榴弾に二、三十名が集った、 瞬間手榴弾がそここヽに爆発したかと(※20)思ふと轟然たる無気味な音は谷間を埋め 瞬時にして老幼男女の肉は四散し 阿修羅の如き阿鼻叫喚の地獄が展開された 死にそこなった者は梶棒で頭を打ち合い 剃刀で自らの頸部を切り 鍬や刀で親しい者の頭をたヽき割る等世にも おそろしい情景がくり拡げられた 谷川の清水はまたヽくまに血の流れと化した 寸時にして三九四人(※21)の生命が奪い去られた、 その憎みの盆地を村民は今なほ玉砕場と呼んでいる、 手榴弾不発で死をまぬかれた者は友軍陣地へ救いを求めて押しよせた時 赤松隊長は壕の入口に立ちはヾかり軍の壕は一歩も入ってはいけない、速に軍陣地近郊(※22)を去れと厳しく構へ住民をにらみつけた 住民は致し方なくすごヽヽと友軍陣地東方盆地に集ひ無意識の一夜を過ごした 昭和二十年三月二十九日、 米軍の砲撃は執拗にも住民待避の盆地へ飛来し住民三十二名の命を奪い去ると共に防衛隊数名の戦死者を出した。 昭和二十年三月三十一日米軍は赤松隊の無低 ママ 抗を見くぴったか夜半島を徹 ママ 退した 砲弾の音も止み生きた自らをうたがひ 張りつめた気力を失い五日間の空腹を夢遊病の如くさまよい乍ら死場所を失った住民は迷い歩いた揚句 僅少な食糧を残して置いたもとの避難地恩納川方面へと移動した、 赤松隊も持久態勢に入る為に食糧確保に奔走した 間もなく赤松隊長から命令が伝達された 「(※23)我々軍隊は島に残ったすべての食糧を確保し持久戦の準備を整へ上陸軍と一戦を交えねぱならない事態はこの島に住む人々に死を要求していると主張し」住民に家畜屠殺禁止の命が出され違反者は銃殺といふ厳しい示達である 直ちに住民監視の前哨戦が設けられ多里少尉がその任務についた。 住民の座間味盛和にスパイ嫌疑を問い無実の罪に陥れて斬り殺したのも多里少尉である その他家族全員を失ひ山をさまよい歩く古波蔵樽を捉え敵に通ずるおそれありと高橋伍長の軍刀にかける等住民に対する残虐行為が始まった、 慶良間海峡には常に敵輸送艦や駆逐艦、小型空母等が停泊しその散およそ(※24)三〇〇隻を下ったことはない。 時々友軍特攻隊の攻撃もあったが 敵の対空砲火には坑し難く火を吐き海中に落下する尊い姿も見受けられた。 昭和二十年四月下旬頃から軍民共に飢饉にひんし 蘇鉄の切干に野草を混じた代用食で露命をつなぐ状況となった。 元気の者は監視の眼を逃れて蘇鉄を集めた 生き残った防衛隊員は命令によって防衛隊長屋比久孟祥氏の指揮で軍の食糧獲保に努力した。 昭和二十年五月初の軍は遂に住民の保有する僅かな非常食糧の供出を強要し朝鮮人軍夫をして食糧徴収が行われた。 住民は急激に老、幼男女の栄養失調が続出し生き延ぴてゐることの不甲斐さを嘆くものもあった。 気力ある者は夜間海岸に出て米艦船から捨てられた肉切れや果物等の標流物を求めて食糧の足しにした。 座間味島を逃れて赤松隊と行動を共にした三宅少佐は危険の多いこの島を脱出し沖縄本島へ渡る機会を絶えずねらっていたのであろう 防衛隊員の中から割舟に経験のある者の調査が行われた、 この時の白羽の矢が隊員小嶺賀牛玉城定夫の両名に当った. 本人達は希望するところか軍命であれぱ致し方なく決死行の意固めた。 刳船は三宅少佐外三名の軍人を乗せ漕手に糸満漁夫二名を補強し渡嘉敷港を出発した 静かな海峡を敵艦艇の監視綱をくぐり四哩の海路を無事前島部落へ辿り着いた. 前島北方海岸に刳舟をかくし 島に上陸して見ると住民の姿は全く見受けられない. その夜も沖縄本島への砲撃は寸時も止まず 照明弾の合間を伝って砲声は十六哩の海をこえて耳をつんざく有様である 一夜明けて昼の沖縄本島を望めぱ無事目的を達成することは到底望むべくもない。 然し少佐は万難を排して決行せよとの事である 宵闇と共に前島を出発したのであるが掃海艇の讐戒厳しく二、三回失敗を操り返し命からヾヽ引返した.三宅少佐は艇長小嶺賀牛を呼ぴ出し言葉厳しくなじった. 小嶺は慎重を期せねぱ 目的達成はおぼつかないと答へると少佐は激昂し軍刀を握ってにらんでいた。 切るなら切れと前に迫ると少佐は何を考へたか平静に返った。 今こヽで切っては目的が達成出来ないことを知ったのてあらう、 漕手は疲れ切って精一杯だった.遂に最後の決死行である. 再ぴ前島を後にした. 輻輳する艦船の横腹を手探りつスクリウの波にまき込れながら遂に神山島北方へ出た。 暗夜に乗じて那覇へ向かったが掃海厳しく接岸不能である、 全員合議の上 舟首を糸満港へ向けた 東天はすでに夜明けを知らせつヽあるので島伝いに必死の力漕を続け遂に糸満港に着くことができた まさに天佑である全員無事を喜び合いながら疲れを忘れて真玉橋の方面隊本部へと急いだ 昭和二十年五月初旬米軍は再度渡嘉敷に上陸した。 赤松隊の急襲に備へるため各高地には砲陣地が構築された. 間もなく伊江島住民が渡嘉敷部落へ移動せしめられ米軍の保護の下に収容されていた 赤松隊は極度の食糧欠乏が目立ってきた。 若い下士官や将校は夜間切り込みと称して米軍の食糧集積所を襲い食料や煙草等を確保する様になった.その為に米軍は各要所ヽヽに地雷施設をし友軍の侵入に備えた。鈴木、小松原両少尉はその犠牲となった 伊江島住民は米軍の保護を受け乍ら渡嘉敷部落の焼け残った家屋で生活している。 まもなく米軍からの要求で伊江島住民から選ぱれた若き青年男女六名が赤松隊へ派遣された。 戦争がすでに日本に不利であり降伏することが最も賢明な策であることを伝へる為の軍使であるが 赤松隊長は頑固として聞き入れず六名の青年男女を斬殺したのである。 また集団自決場で重傷を負い米軍に収容され(※25)座間味の米軍病院で治療を受けやうやく快復し米軍の使者として渡嘉敷住民へ連絡のために住民避難地へ派遣された十六才の少年小嶺武則金城幸次郎の両人は不幸にも途中赤松隊将兵二人に捕えられ米軍に通じた理由の下に直ちに処刑された。 渡嘉敷小学校訓導大城徳安氏が敵に通ずるおそれありと斬首される等 住民は日々欠乏する食糧難と赤松隊の恐喝に益々くたぱり食ふに糧なく下山するにもその方途なく栄養失調が続出するのみ 飢餓と戦いつヽ六月、七月とニケ月を過し八月を迎えたが食糧はますヽヽ欠乏の極に達し今日まで生き長らへた住民は死の寸前に晒され玉砕した同僚を羨む者さへあった 昭和二十年八月十二日午前 自決場で妻を失い幼児二人を抱へた郵便局長徳平秀雄氏は長女を背負い 長男の手を引き住民十五名と共に食を求めて山野を移動中 米軍の潜伏斥侯数名に包囲され拉致された これが住民下山の第一歩となった. 昭和二十年八月十五日米軍機から赤松隊陣地ヘビラが撒布された。 ボツダム宣言の要旨が記され降伏は矢尽き刀折れたる者のとるべき賢明な途であることを勧告(※26)してあった. 住民は集団投降の意を決し代表者をして村長古波蔵惟好氏と相談した.村長も民意に随ふことを許しぞくヾヽ白旗を掲げて下山した 八月十六日防衛隊員と共に残った住民の一部が下山したが赤松隊は依然として投降せず 米軍指示により渡嘉敷住民の中から軍使として出すことになり 新垣重吉、古波蔵利雄、与那嶺徳、大城牛の四名が選ぱれた その任務は赤松隊への投降勧告であるが一旦見付けられると死を覚悟しなければならない 新垣、古波蔵はよく状況察知し軍隊生活の経験ある為(※27)歓告文を木の枝に縛り付け密に任を果して帰ったが与那嶺、大城の両氏は要領得ずして赤松隊に捕らわれ即座に切り捨てられた、 昭和二十年八月十八日赤松隊知念副官が軍使として投降の交渉に当った、 昭和二十年八月十九日赤松隊長知念副官外将校一名が米軍本部へ到着渡嘉敷小学校々庭において武装を解除され降伏文書に調印した、 次いで西村大尉の率いる赤松隊将兵が戦友の遺骨を先頭に 八月二十二日渡嘉敷小学校々庭に集合武装を解除され直ちに沖縄本島へ連れ去られた あらゆる力を結集し持久態勢を整へ米軍と一戦を交へ皇国の為全員玉砕渡嘉敷島に屍をさらすと剛語した赤松隊も米軍の鉄量には(※28)坑すべきすべもなく牧牛の如く連れ去られたこと思ふ時一掬の涙をさそうものがあった. 斯様に沖縄本島と切り離された島の戦線は独特の様相と経路を辿りつヽ沖縄本島降伏に遅れること一ケ月昭和二十年八月二十三日その幕を閉じたのである 尚最後に特筆すべきは三月二十七日渡嘉志久路上で米軍と遭遇し激戦の末、伊芸山の山頂に護国の華と散った佐藤小隊の一こまである (完) 注 (役)渡嘉敷村役場にあるテキスト。(山)は山田義時氏所蔵のテキスト 1(役)『概要』「あるかを」の「か」の上に、ベンで「こと」と直してある。 2(役)『概要』「いた」の「た」の上に、ペンで「る」と直してある。 3 (山)『概要』には、「驚いたことは」とある。(役)『概要』は「驚いたことには、」という具合に、「に」と「、」が加えられている。 4(役)『概要』では、「を」をペンで消して、「が」に直してある。 た 5(役)『概要』では、「見られたかと恩ふと」というように、「た」がペンで傍書されている。 6(役)『概要』では「底」をペンで消し、「低」に直してある。 7 『概要』は「左」文字を「在」に書き誤り、右方に「左」と訂正。 8(役)『概要』では「充」を消し、「当」に直してある。 9(役)『概要』では点をほどこしているが、後人が「か」と読みとったからであろう。 10『概要』は、「一部」の次に「を残」と書き誤り、==で消してある。 11(役)『概要』では、「じ」となっている。 12(役)『概要』には「できないものがある」というふうに、「い」文字がペンで書き加えられている。 13『概要』では「六」と書き誤っており、ペンで「五」に書き直してある。 14(役)『概要』では、「待った」の「た」をペンで「て」に直してある。 15 9に同じ。 16(役)『概要』では、「〓」の「廾」をペンで消してある。「獄」の謂であろう。 17『概要』では「友軍陣陣地」と書き、上の「陣」を斜線で消してある。 地 18(役)『概要』では、鉛筆で「友軍陣地北方」と「地」文字を書き加えてある。 19「死なう」の、な」は、(役)『概要』において、「の」とペンで書き直してある。 20『概要』では、「ら」を==線で消し、「と」に直してある。 21(役)『概要』では、鉛筆で「三六ニ」に直してある。 22(役)『概要』では、ペンで「郊」を消し、「軍陣地附近」と直してある。 23『概要』のカギのとじの部分は正しくない。 24『概要』は「おそよそ」と書き誤り、最初の「そ」を==で消してある。 25(役)『概要』では「小嶺武則次金城幸次太郎」というふうに、鉛筆で訂正してある。 26(役)『概要』は、焦け跡よって判読不能。煙草によるものと思われる。 27(役)『概要』「歓」の「欠」部を消し、右方に「力」とペソで直してある。 28(役)『概要』では「土」を「才」に直してある。 『渡嘉敷島における戦争の様相』と『慶良間列島渡嘉敷島の戦闘概要』の異同 沖縄戦資料index
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渡嘉敷島の惨劇は果して神話か―曽野綾子氏に反論する―5 太田良博 昭和四十八年七月十一日から同七月二十五日まで 琉球新報朝刊に連載 『太田良博著作集3』p184-188 目次 5 【引用者註】欺瞞的な「抗戦」と「降伏」の苦しい弁護 防衛庁防衛研修所戦史室による『沖縄方面陸軍作戦』中の「海上挺進第三戦隊(渡嘉敷島の)戦闘」に、左の記述がある。 「八月十六日米軍から終戦の放送があったので、戦隊長は十七日木村明中尉以下四名を米軍に派遣して確認させた。 翌十八日戦隊長は米軍指揮官と会見し、終戦処理について協議し、まず停戦を協定し、八月二十四日、一〇〇〇部隊全員武装解除を受けた」と。 右は赤松元戦隊長提供の資料に基づくものである。 赤松戦隊長は、部下本隊(八月二十四日降伏)より約一週間早く、米軍の保護下にはいっていることになる。終戦の翌日、米軍の放送を聞き、さらにその翌日、直ちに敵である米軍の下に部下を派遣して終戦を「確認」させたというが、早手回しのこの行為からみて、すでに戦意を失い、戦争の終わる機会をうかがっていたとしか思えない。 赤松隊が、日本軍側の情報で終戦を「確認」したのは八月二十一日(『ある神話の背景』に記載)だから、それを待たずに赤松は降伏しているが、抗戦中の軍隊の指揮官のとる態度としてはうなずけない。あの当時、敵軍の終戦情報だけで、あつさり降伏にふみ切るような感情や思考の百八十度の転回が簡単にできたのは「見事」といわざるをえない。天皇 184 の詔勅も、赤松隊が、いつ、どんな方法で確認したのか不明だ。前述の戦闘記録の中で、「停戦を協定し……」うんぬんと白々しいことを書いてあるが、「降伏手続きに関する取り決め」をやったあと、敗残兵の苦境から脱したということである。「停戦協定」とは「事後戦力保持者」のとりうる手段である。 当時、渡嘉敷国民学校長だった宇久真成氏から聞いた話では、五月中旬ごろ、山中で、のんびりと、銃をかついで、一人で歩いている十八歳位の米兵をみたそうである。そのころは、米軍の少年兵が山中を一人歩きのできるほど、渡嘉敷島は、米軍にとって危険な場所ではなかったわけである。 『ある神話の背景』の中で、赤松隊員は、「自分たちが渡嘉敷島で持久戦をやれば、それだけ敵をひきつけ、軍全体の作戦に寄与できた」などといっているが、渡嘉敷島にひそむ日本兵など、米軍は、かゆみとおぼえないほど無視していた。米軍の記録『日米最後の戦闘』には、「慶良間確保は日本軍の損失以上に米軍にとって大きな収穫であった。いまやアメリカの手中に帰したこの投錨地は、周囲を島で防備された小型海軍基地となった。ここから海軍機は飛び、艦船は燃料弾薬を補給し、傷ついた船は修繕された」と記している。 当時、米軍の一個分隊は、日本軍一個中隊以上の火力を持っていた。『沖縄方面陸軍作戦』で、赤松隊が米軍の二個大隊を阻止したとか、一個中隊を撃退したとか、いろいろ書 185 いてあるがマユツバである(戦果や損害にっいては明記してない)。 米軍の記録は、座問味島や阿嘉島では、日本軍の手ごわい反撃にあったと書いてあるが、渡嘉敷島の戦闘についてはとくにふれていない。渡嘉敷島住民も、戦闘らしい戦闘はなかったといっている。 『沖縄方面陸軍作戦』の記録で座間味、阿嘉、慶良問各島の損害を比較すると左の通りである。 (カッコ内は戦死) 【座間味】 戦隊一〇四名(六九名) 基地隊二五〇名(約一〇〇名) 船舶工員約五〇名(三二名) 水上勤務約四〇名(一五名) 【阿嘉島】 戦隊一〇四名(二二名) 基地隊二三四名(六五名) 水上勤務二一名(一〇名) 186 【渡嘉敷】 戦隊一〇四名(二一名) 基地隊二一六名(三八名) 水上勤務一三名(不詳) つまり、渡嘉敷の赤松戦隊の犠牲が最もすくなかった。逆に住民の犠牲は渡嘉敷島がいちばん多かったのである。 赤松隊は、防召兵や住民に対して実に厳格な態度でのぞんでいた。その点、彼らの軍人としての行動も厳格に批判されてよいはずである。米軍の記録によれば、米軍が渡嘉敷島に最初に上陸した、三月二十七日と同二十八日は野砲で五百回以上も砲撃し、ほかに艦砲射撃や空襲、陸上砲撃で山形改まるまで弾丸をうちこんでいる。 日本軍の抵抗はほとんど無視できるほどのもので、米軍は日本軍の応戦より、島の地形に悩まされたといっている。あれだけの砲撃で、「陣地らしい陣地もなかった」と赤松隊員が証言している小島で、隊員の犠牲は意外にすくない。その後、日本軍は抵抗らしい抵抗をやった様子がない。そのはずで、もし頑強に抵抗していたら本格攻撃をうけて全滅しただろう(上陸三日目の三月二十九日、米軍は全島を偵察している)。 六月中旬、沖縄戦が終わって以後、慶良間各島の日本軍に米軍はたえず降伏勧告をして 187 いる。米軍の記録によると、日本軍捕虜や二世などを通じて渡嘉敷島の指揮官と交渉(この点、伊江島住民処刑の理由がなりたたない)したら、降伏は拒んだが、米軍が日本軍陣地に接近しなければ、こちらから攻撃を加えることはしない、米人が渡嘉敷ビーチで水泳しても何もしないと告げたと書かれている。これこそ重大な通敵行為である。『ある神話の背景』で作者はこれを「遊泳許可事件」として、赤松隊長のために、つじつまのあわない苦しい弁護をしており、その中で作者は「遊泳許可事件」の汚名を阿嘉島の指揮官に転嫁しようとさえしている。米軍記録にははっきり「渡嘉敷島の指揮官」「トカシキ・ビーチ」としてある。 赤松隊員がそれを否定しても、米軍の記録を信用するほかない。 188 次へ
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渡嘉敷島の惨劇は果して神話か―曽野綾子氏に反論する―3 太田良博 昭和四十八年七月十一日から同七月二十五日まで 琉球新報朝刊に連載 『太田良博著作集3』p175-179 目次 3 【引用者註】天皇の旗の下、敗残兵が強いた住民の死 「赤松氏には反省がないという言い方もあるが、軍人として過ちはおかしてないという赤松氏の発言にも妥当性がある」と、作者はいう。しかし、問題なのは、「軍服をぬいだ現在の彼」が二十数年をへて、なお「軍人としてまちがっていなかった」としかいえない貧弱な精神内容である。 日本の社会では、いま、どんな殺人魔でも死刑執行できない状態である。大久保清のような男でも死刑の判決をうけただけである。かかる社会事情の中で、戦争で死んだ行った 175 人たちを考えるとまことに気の毒である。妻に会いに行ったとか、降伏勧告をしたというだけで直ちに処刑された善良な人たちを考えるとき、悪い時代に生まれ合わせた人たちだったという気持ちぐらいは、処刑者として持てないだろうか。 ただ自己弁護する赤松――罰なくして罪を悟れない人間の弱さを痛感する。 一方、「反省を強いることのできるのは神だけだ」という作者と、他方では、陸軍刑法など引用して赤松をかばおうとする作者に矛盾を感ずる。 「沖縄のあらゆる問題を取り上げる場合の一つの根源的な不幸にでくわす筈である、それは、常に沖縄は正しく、本土は悪く、本土を少しでもよく言うものは、すなわち沖縄を裏切ったのだというまことに単純な理論である」と作者はいう。ここで作者が、赤松の問題を、本土対沖縄の関係でとらえている片鱗をのぞかせている(この点については、詳説をさける)。 グアム島で発見された元日本兵横井庄一氏を敗残兵と規定するのに誰も異論はないであろう。だが、赤松隊員と横井庄一氏とどうちがうのだろうか。ちがうところは、赤松隊員は、終戦の声をきくやいなや降伏したが、横井氏は二十八年間も頑張ったということだけである。沖縄戦がおわり、慶良間の一孤島で、米軍の目を避けてひそみ、無力化していた兵隊たちは、客観的にみれば敗残兵である。 176 米軍は、三月二十九日(昭和二十年)に、渡嘉敷島確保宣言をなし、同三十一日には慶良間列島全域の占領宣言をおこなっている。 これは作戦上、重大な意味をもつ。米軍が沖縄本島に上陸したのは四月一日で、本島の占領宣言を行ったのは、軍司令官が摩文仁で自決し、事実上、第三十二軍が潰滅した六月二十二日である。その後の作戦を米軍では、「敗残兵掃討作戦」としている。自国軍隊が主観的に自らを敗残兵とすることはまれで、敗残兵を規定するのは敵国軍隊による客観的視点においてである。 米軍の沖縄本島上陸前に米軍は慶良間占領を宣言しているから、慶良間列島は、沖縄本島戦開戦前に、すでに沖縄本島における戦争終結の状態と同様の状態になっていたわけで、その状態が終戦まで続いたわけである。この事実は弁解の余地がないとおもわれる。『ある神話の背景』の中の知念少尉の証言に、「連隊旗をもって」云々というのがある。チャンとした軍隊だったことを誇示する言葉である。連隊旗は「軍旗」の俗名である。歩兵と騎兵の連隊にしかない軍旗、ふつう師団以上の大部隊の重要作戦とともに戦地におもむく軍旗が、大隊の形であっても兵力から言えば中隊ていどの、しかも船舶隊配下の小部隊にあったのだろうか。また、先任士官梅沢少佐の第一戦隊ではなく、序列最下位の赤松戦隊が軍旗をもっていたというのもうなづけない。 177 日本の軍旗は「明治天皇の分身」ともいわれ、「天皇の象徴」ともいわれるもので、天皇から勅語とともに直接、親授されるものである。渡嘉敷島に軍旗があったということになれば、「天皇の象徴」の下で、住民が虐殺されたことになり、それは実に象徴的な事件といえる。 また軍旗を奉持する部隊が、本来の任務たる特攻出撃を中止し、終戦の声をきくと待っていましたとばかり下山投降する。しかもその際の陣中日誌には、軍旗の処置については何もふれていない。こんな軍隊があるだろうか。括目して疑わざるをえない。 ただし、(赤松隊員証言の信憑性と関連して)軍旗のことは、『ある神話の背景』の中では知念少尉以外、誰もふれていない。 なにかの旗のかん違いか、デタラメを言ったのだろう。 終戦前に捕虜となったのは投降だが、われわれは終戦の詔勅によって武器を捨てたのだから投降ではないと、赤松隊員は『ある神話の背景』の中で、妙な理屈をこねている。今だからそんなことが言えるが、終戦直後、沖縄の屋嘉捕虜収容所やハワイのPW.キャンプあたりで言ったとしたら、沖縄本島の戦闘で、激戦のすえ、九死に一生を得た他の多くの兵隊たちから、それこそ袋だたきにされたにちがいない。 作者は不用意に、右の「妙な理屈」を受け売りしている(詳説をさける)。 178 島の駐在巡査だった安里喜順の証言は、赤松隊と同じ立場に立つ者の証言として聞かねばなるまい。「非戦闘員は、生きられるだけ、生きてくれ」と赤松隊長は言った、と安里は作者に語っているが、そんなら集団自決の現場にいた安里は、なぜ、住民の自決をとめなかったか。それを傍観し、みとどけてから、赤松隊長に報告するといった態度はどう説明するのか。 『鉄の暴風』で私として訂正しておきたい点がある。沖縄出身の知念少尉が上官と住民の板ばさみで悩んだように書いたが、事実に反する。知念少尉は伊江島の女性を殺害している。彼をして同郷人を斬らしめるほどの異常な空気が赤松隊にはあったのがわかる。 179 次へ
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渡嘉敷島の惨劇は果して神話か―曽野綾子氏に反論する―1 太田良博 昭和四十八年七月十一日から同七月二十五日まで 琉球新報朝刊に連載 『太田良博著作集3』p167- 171 目次 1 【引用者註】赤松擁護と、「住民不在の戦争」の裏側からの弁護 曽野綾子氏(以下、作者と略す)の『ある神話の背景』で、赤松神話のバイブルとされているのが『鉄の暴風』の渡嘉敷戦記である。その「神話部分」の執筆者として、意見をのべざるをえない。 『ある神話の背景』は、多くの関係者の証言で構成され、同時に、人間の問題を掘り下げたものである。ただ、「証言」そのものの検討が、十分になされているとは思えない。証言の中に、もし「ウソ」がまじっていたら、全体の構成がぐらつく。ことに、加害者側の証言(厳密な意味では証言とはいえない)は、ふつう信憑性がうすく、都合のよい自己弁護になりがちである。 たとえば、特攻艇出撃中止に関する証言で、赤松第三戦隊は沖縄本島の船舶団本部に打電し、同本部から、転進命令の返電をうけたというのは、ちょっと理解しにくい。 船舶団長の大町大佐は、約十五人の幕僚をつれて慶良間列島視察にきている(赤松隊は 167 承知)。本島の船舶隊本部は、首脳部のいない留守部隊である。目と鼻の先にいる大町大佐に指揮を仰がずに、わざわざ留守部隊に連絡するというのは、軍隊の常識では考えられない。また命令は軍司令部から出されたように書かれているが、たとえそうであっても、座間味、阿嘉島をへて渡嘉敷島に向かいつつある直属上官たる大町大佐の指示を待たずに、渡嘉敷島の第三戦隊だけが単独行動をとることは、「独断専行」の言いわけもたたないほど命令系統を無視した行為である。 第三十二軍高級参謀八原博通元大佐の『沖縄決戦』によると、八原大佐は、敵が慶良間を攻撃したとき、同地域の特攻艇の出撃に期待をかけたが、特攻出撃の気配なく、遂に失望したとのべている。すると高級参謀は「転進命令」を関知しなかったことになる。 特攻艇出撃中止のような軍の最高作戦事項について高級参謀が知らなかったとはどういうことか。しかも特攻艇の慶良間配備は八原参謀の意見に基づくものである。 「貴様は逃げる気か」と大町大佐は、激怒して赤松戦隊長を叱りつけたというが、当の大町大佐が戦死している今日、言葉を持つのは赤松氏だけである(右の件につき防衛庁戦史室発行の『沖縄方面陸軍作戦』の記録はチグハグである)。 裁判では、一方に検事(告発者)がいて、他方に弁護士がいるのは当然だが、赤松事件に関しては「判事」はいない。『ある神話の背景』が、「人間が人間を裁くことはむつかしい」168 という思想に立っている以上、作者は判事たりえない。 「もしも私がその島の指揮官であったなら、私は自分の身心を助けるために、あらゆる卑怯なことをやったに違いない」という作者。実は、その部分が、『ある神話の背景』の論理構成全体の支点の役目をなしている。 作者が赤松の立場に身をおきかえて自己内省をやることで、人間としてのおののきを感ずるのは、主観的には誠実といえる。 しかし半面、この自己内省は、客観的には、赤松の立場の擁護となり、告発者に対する批判となる。ただし、「汝らのうち罪なき者、石もてこの女を打て」というキリスト教的思想からすれば、地上的な「罪に対する裁きの問題」は成り立たなくなる。裁判官は殺人犯でも裁けなくなる。 誰が赤松を「告発」する資格があるかということではなく、どうして、赤松に住民を殺す資格があったのか、ということが問題であり、赤松を告発するのは特定の個人ではなく、社会のルールである。 戦場の異常な環境と心理に基づく行為を、平和時に云々することはむつかしいとの考え方もあるが、これは「裁き」の否定になる。戦場に限らず、すべての殺人行為は異常な環境と心理の中でおこなわれ、あとで、冷静な立場と判断からの裁きをうけるのである。戦 169 場の特殊事項が「免責」の理由になるなら、軍法会議や戦犯裁判は成立しない。 『ある神話の背景』は、「人が人を裁くことのむつかしさ」という次元のちがう問題を「社会が、行為を裁く刑事責任」の中に持ち込んでいるような気がする。赤松の立場に身をおいて考える作者は、「もしあのとき、自分が渡嘉敷島の住民の一人であったら、果たして赤松隊の行動を弁護する気になっただろうか」という住民の立場からも考えてみる必要があったのではないか。 『ある神話の背景』について私が持っている疑問のひとつは、なぜ、渡嘉敷島の事件だけが弁護に価するかということである。沖縄戦の各地で起こった同様な事件、あるいは中国その他外地での日本軍による対住民加害事件について、作者はどう考えるかということである。 軍隊は住民を守るためにあるのではないとして、曽野氏は、「軍の主とする所は戦闘なり、故に百年皆戦闘を以て基準とすべし」との作戦要務令綱領の一文をあげる。 これは、「住民不在の戦争」の裏側からの弁護であり、そのなかで戦争目的そのものが陥没する。作戦要務令その他の典令は軍事テクニックに関するもので、軍人モラルを示した軍人勅諭の解釈である戦陣訓には「住民を愛護せよ」とある。軍略と軍政は並行すべきで、敵国住民でも保護、宣撫しなければ戦争目的は遂行できない。いわんや自国住民に対 170 してはなおさらである。現に、赤松隊の連下氏は「軍は住民を守る任務を持っていた」とのべている。早い話が、米軍は戦闘間、敵国の沖縄全住民を保護しているではないか。米軍の保護下にせっかくはいった住民の幾人かを、赤松隊はごていねいにも殺害しているのである。 戦闘員相互間の殺し合いは、正当防衛論で、辛うじて説明されるが、非戦闘員の立場は別である。赤松隊員の住民殺戮行為は、いかなる正当防衛に基づくのか判断しにくい。 171 次へ
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戦隊長殿!ジブン達は一体、何処へ向えばイイのでありますか? 3月25日渡嘉敷島で受信したという「転進命令」の怪 赤松嘉次「戦隊長」が証言する「行き先」がクルクル変るので、防衛省公式戦史すら分裂症に陥ったまま放置されています。もちろん特幹生たちの霊は、戦隊長が伝達する軍命令の転進先がクルクル変るので、64年経っても冥土へ出発することすら出来ず、未だに渡嘉志久の浜に留まっているのでしょうか。 1、1945辻版『陣中日誌』では 「転進命令 軍並ニ軍船舶隊ヨリ部隊(戦隊ノミ)那覇ニ転進命令ヲ受領ス」 2、1945日録の大本営作戦部『戦況手簿』では、 「一、慶良間列島附近ノ敵ニ対シ海上挺進部隊ヲシテ之ニ打撃ヲ与フルト共ニ那覇ニ転進スル如ク部署ス」 3、1946.1赤松嘉次提出『戦史資料』では、 命令の要旨 「状況有利ならざる時は戦隊を率い本夜中に本島に転進すべし」 4、1946.3『殉国日記』に寄せた赤松嘉次著『渡嘉敷戦斗ノ概要』では、 「軍命令ならびに団長の意向に依り途中の敵を撃破しつつ本島に転進し本島に於て海上作戦を行ふに決す」 5、1946.3中島幸太郎氏が書き写して『殉国日記』に収録した、赤松氏自宅在『部隊長戦場日記』では、 「軍並ニ軍船舶隊ヨリ部隊(戦隊ノミ)ニ対シ那覇ニ転進会合ヲ受領ス」 ここまでは、転進先は那覇もしくは本島なのに、赤松氏は1966年ごろ防衛研修所戦史部の聴取を受けたとき、突如として転進命令の行く先を「糸満附近」だと強く主張した模様です。 戦史部はそれに折れたのでしょうか。戦史叢書では以下のように「糸満」を主説とし、「那覇」説を注記で記した副説としています。 6、1968「戦史叢書・沖縄方面陸軍作戦」では、 赤松戦隊長は軍司令部に渡嘉敷島の情況を報告すると共に今後の処置について問い合わせたところ、二十五日夜軍司令部から『敵情判断不明、戦隊は情況有利ならざるときは本島糸満附近に転進せよ、転進の場合は糸満沖にて電灯を丸く振れ』の指示電報があった。 注:軍司令官は既述のように二十五日午前慶良間列島に米軍が上陸したとの報(誤報)を受けており、二十五日慶良間の海上挺進戦隊に転進を命じた。 大本営陸軍部第二課の戦況手簿は二十五日の情況欄に『慶良間列島附近ノ敵ニ対シ海上挺進戦隊ヲシテ之ニ打撃ヲ与フルト共ニ那覇ニ転進スル如ク部署ス』と既述している。 これは「公刊戦史」ですから、爾後、多くの著作物において主説である「糸満転進」が無意識に引用されているものと思われます。 なお戦史叢書の「慶良間列島の戦闘」全体を読めば、この25日の無電による「軍司令部による転進命令」を聞いたのは、軍司令部に問い合わせをした第三戦隊のみだったと理解できます。 さて、このように「糸満転進」命令説を押し通した赤松氏は、その後はどうしたのでしょうか? 7、1970年の赤松隊の戦友会谷本伍長がまとめた『海上挺進第三戦隊陣中日誌』では、 二一三○ 船舶団本部より下記命令を受領。 「敵情判断不明、慶良間の各戦隊は情況有利ならざる時は所在の艦船を撃破しつつ那覇に転進すべし。那覇港到着の際は懐中電灯を丸く振れ船舶工兵之を誘導収容す。」 なんと、転進先は何の説明も無く「糸満」から「那覇」に戻されてしまったのです。こっそりと、だともいえます。これでは、大本営の記録を引っ込めまでして赤松氏を尊重し、敢えて「糸満」を主説とした公刊戦史編集者の面目丸つぶれです。 というか、同一人物の記憶と主張がこれ程クルクル変る例はめったに無いのではないでしょうか? しかもこれは、渡嘉敷島にいた海上挺進第三戦隊そして配属部隊の将兵の運命を決めた軍司令部命令に関することです。もちろん、玉砕を迫られた女性、子供、老人たちの運命までが、僅か25歳の司令官のシビアリティーのない記憶によって差配されていたことを思うと、余りにも痛ましいとしか申し上げようがありません。 沖縄戦資料index
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「海上挺進隊出撃後の島民は?」 昭和20年3月20日頃、赤松隊の兵器軍曹が渡嘉敷の少年たちに手榴弾2づつ配って、1個は敵兵に投げ1個で自決せよといったという富山真順証言は、いまだに軍命令否定論者の執拗な攻撃対象であるようです。 「狼魔人日記」2009-04-20 06 59 29 は、「ハーバービューホテルの決闘!太田元知事vs上原正稔」という何かしら愉快そうなエピソード紹介のついでに、大阪地裁、大阪高裁、2度の裁判で木っ端微塵となった「原告側口頭弁論」を蒸し返しています。もしかすると、こう何度も孫引かれる御当人である上原正稔氏には大迷惑かもしれませんね。きっとクシャミが止まらないことでしょう。 「沖縄集団自決冤罪訴訟」の原告側の準備書面に出てくる上原氏に関連するくだりを抜粋すると次の通りである。 さて、今回新たに提出した重要な証拠のなかに、沖縄出身の作家上原正稔氏が記述した『沖縄戦ショウダウン』があります。上原氏は、琉球新報に「沖縄戦ショウダウン」を連載中、当時の集団自決の生き残りである金城武徳氏らを調査した結果、渡嘉敷村民の自決について、「国のために死ぬのだ。だれも疑問はなかった。村長が立ち上がり音頭をとり、『天皇陛下万歳』と皆、両手を上げて斉唱した」ことを確認しています。 (2)続いて、被告らが依拠する富山証言の信用性を弾劾しています。被告らは富山証言をもとに米軍が上陸する直前の昭和20年3月20日、手榴弾を村民に配ったといいます。富山証言は第3次家永訴訟において、沖縄国際大学の安仁屋政昭氏が公に持ち出したものでありますが、日本軍の第32軍も渡嘉敷島の第3戦隊である赤松部隊も米軍が慶良間諸島を最初に攻撃することはないと考えていました。だから地上戦も予定していませんでした。安仁屋氏もそのことを明確に認めています。3月25日8時海上に敵機動部隊船影を確認するまで米軍の渡嘉敷島への上陸を全く予想していなかった赤松部隊が3月20日に米軍の上陸した場合の戦闘に備えて村の少年や役場職員に手榴弾を配布することはありえません。富山証言はデッチアゲそのものです。 (略) 引用はこれ位にしておきましょう。 「富山証言はデッチアゲそのものです。」 と下卑た言葉を、果たして上原正稔氏自身が言ったかどうかは知りません。しかし、原告弁護団徳永信一氏や「狼魔人」氏にかかれば、故人を貶めるこのような下卑た言葉になってしまうのでしょう。 狼魔人氏の本文を読みたい方はこちら http //blog.goo.ne.jp/taezaki160925/e/14c3d8ab3beadbaf5f30165ab26d5190 以下は、この文章に私がつけたレスです。 上原氏と秦氏 (ni0615) 2009-04-20 07 36 59 狼魔人さん おはようございます 日本軍の第32軍も渡嘉敷島の第3戦隊である赤松部隊も米軍が慶良間諸島を最初に攻撃することはないと考えていました。だから地上戦も予定していませんでした。安仁屋氏もそのことを明確に認めています。 これは上原正稔氏が言ってたことなのですか? 秦郁彦氏がしりきに強調するから、「軍事史研究家」のクセに頓珍漢なことをいうものだな、と常々思っていたのです。 昭和20年3月20日前後といえば「敵上陸間近」。島民動員による舟艇庫の建設もようやく終わったときだと赤松手記は書いていますね。とき来たらば「海上挺進隊」は出撃するのです、それも間近なのです。 出撃すれば、留守となった「海上挺進隊」基地が敵米軍に攻撃されるのは必然です。島民は戦うか自決するか、2つに一つなのです。 仮に、「本島上陸の前に敵の慶良間上陸はないだろう」と軍当局や赤松らが思っていたとしても、舟艇出撃後のために島民に手榴弾を配るのは当然です。「もうお前たちの庇護は出来ないよ! これを渡しとくから出撃のあとは任せるぞ!」というメッセージでもあったでしょう。 だから地上戦も予定していませんでした。 確かに、誰も出撃しないで地上戦を行うことは誰も予定していませんでした。それは事実でしょう。ですが、どうしてそれが、手榴弾を配らなかったことになるのでしょうか? 「挺進隊出撃後は米軍に逆らわず降伏せよ」と軍が住民に命令していたという事実があれば、条件付で納得することも出来ますが。 上原正稔氏も秦郁彦氏も、狼魔人さんが伝えてくださるとおりなら、とんだ詐話師ということになります。 TOP
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渡嘉敷村・座間味村共編 『渡嘉敷島における戦争の様相』 琉球大学図書館。日付なし。手書き・ガリ版刷り。伊敷論文よりの復元版。 大阪地裁の公判において『渡嘉敷島における戦争の様相』は原告側証拠甲B23及び被告側証拠乙3として提出された。また、『慶良間列島渡嘉敷島の戦闘概要』は被告側証拠乙10として提出された。参照:書証一覧 まえがき この記録は米軍上陸から赤松隊降伏までの沖縄戦の一端渡嘉敷島の一部を記録しましたが本島と切離された孤島の戦線は幾多相様を異にするものが多々あった。 当時村長古波蔵惟好氏、役所吏員防衛隊長屋比久孟祥(現生存者)等の記憶を辿って其の概要を纒めたものでありますが過去を省みて如何に戦争が罪悪であるかを吾々は実際に体験し、そして今後幾多反省すべきことがあるかを痛感した。将来に再度この様な事を繰返すことのないよう永遠に平和を愛好し人類の幸福と繁栄を自由の中に樹立して行くよう願って止まない。 昭和十九年九月二日七千屯級の汽船が慶良間海峡、阿佐港外に停泊してゐた。その船を目標に友軍戦闘機が三機編隊で毎日急降下演習が続けられてゐる。 この汽船は兵器弾薬を南方へ輪送するものと住民は相像してゐた。 同 九月七日沖縄憲兵隊某軍曹が突然来島した。用件は渡嘉敷の漁船を軍需部の漁撈用に徴用の目的であった。 鰹漁船、嘉豊丸、源三丸、神祐丸、信勝丸の四隻は乗組員一三〇名と共に九月八日午前四時を期して阿波連港へ集結を命ぜられ同日午前十時那覇港へ出発した。 旬日を出でずして村営航路嘉進丸も軍需運搬の目的で徴用され、那覇、久米島間の輸送任務についた。軍は秘密保持のため移動性のある船舶の慶良間各港の出入を堅く禁じていた。 同 九月九日午前八時南方行きと思はれた汽船から渡嘉志久に小型舟艇が近づいて来た。驚いたことには、武装した陸軍の兵隊が上陸してきたからである。或る兵に尋ねたら渡嘉敷に駐屯するとのことである。部隊は鈴木部隊で兵員一千名、基地隊と呼ぱれた。鈴木部隊は渡嘉志久に上陸を完了し渡嘉敷部落へ前進した村国防婦人会は部隊歓迎のため総動員で湯茶の接待をし軍の慰労に努めた。兵員の中には長途の輸送で疲労した為か下痢患者を続出する有様であった。部隊の宿舎には住民の住家があてがわれ、村民は部隊長鈴木少佐の要請により男子十六才から六〇才まで、女子十六才から六〇才までが部隊に協力九月十日から陣地構築作業に従事した。 同 九月二十日特幹船舶隊と称する部隊が赤松大尉を隊長とし兵員一三〇名と舟艇百隻をもって来島渡嘉志久と阿波連に駐屯し日夜猛烈な攻撃演習が秘密裡に行われていた。 数日後徴用された漁船は漁業の根拠地を渡嘉敷港に変更された為、全漁船帰港連日鰹漁業に従事軍需獲得に従事した。 同 十月十日那覇上空は爆音と共に平素と異った様子が見られた。時には高射砲の弾雲も見受けられるので鈴木部隊本部に問ひ合わすと友軍の対空射撃演習だとのことで村民は安心して何時もの通り陣地作業へついた。漁撈班においても嘉豊丸は出漁し源三丸神祐丸は港内に繋留してゐた。その頃前島前方の上空では数百の飛行機が乱舞してゐたが間もなく八千米の上空に四機編隊の銀翼が見られ異様な爆音に不案を抱きながら眺めてゐると飛行機は機首を下げて底空すると同時にダヾヽヽと機銃掃射を始めた。はじめて敵機の空襲と知り村民は上を下への大混乱に陥った大人は陣地作業のため留守であり老人は幼児をかヽえ教員は学童の手を引き右往左往待避に長時間を要した 敵機の空襲は益々猛烈を極め機銃掃射と共に小型爆弾が投下され、何回となく波状空襲が繰り返へされた。 嘉豊丸は東海岸で餌料採捕中、爆沈され、機関長古波蔵鉄彦氏は戦死し、他の乗組員はかろうじて生命を得た。源三丸、神祐丸、は港内に於て炎上沈没し軍用船(えぴす丸)も港内待避中爆破され、戦死者二名を出した。村営航路嘉進丸は軍需物資輸送久米島からの帰途渡名喜島沖合で空襲を受け撃沈され機関長金城連平事務長小嶺賀明の命を奪った。船長古波蔵良秀は三日漂流の後渡名喜島へ上陸生還した。全漁船を失った乗組員は翌日から陣地構築作業に従事すると同時に各高地に設けられた軍監視哨勤務につき、日夜軍に協力した。状況は日毎に悪化し島の東海岸には暗夜に乗じ接近浮上した敵潜水艦の姿が度々見受けられた。 同十月下旬、 今まで自家通勤で軍陣地作業に従事していた村民に防衛隊として七十九名の召集が下令された。兵舎には村の国民学校が充てられ初年兵勤務が続けられたが教練ではなく壕掘作業に従事し、昭和二十年の元旦を兵舎で迎えた。 サイパン島陥落後状況は益々悪化し、沖縄部隊へ入隊する現役兵を送り出すにも困難を極めた。学童も率先して軍に協力し婦人会、青年団員も軍の炊事班に徴用された。その頃軍の防衛陣地及壕は大方完成し舟艇の待避壕も完成、海辺に至る枕木も敷設を終へ舟艇百隻は橇の上に乗せられ出撃の準備は全く完了した。 昭和二十年二月下旬 渡嘉敷島の陣地構築は殆んど完成したが基地隊である鈴木部隊は整備中隊と通信隊の一部及赤松隊特幹隊を残し、沖縄本土防衛のため島尻地区へ移駐した。それと前後し水上勤務中隊と称する朝鮮人軍夫三百二十名が楠原中尉を隊長として来島し、その任務についた。鈴木部隊移駐後は村出身の防衛隊員は赤松隊長の指揮下に属した。 同 三月二十三日午前五時空襲讐報が発令された。事態は悪化し早朝からグラマン機の波状空襲が間断なく燥り返された。 B二十九と思われる大型機の編隊も再三飛来し爆音は山谷にこだまし、耳をつんざく凄しさである。午前八時半村役所、郵便局が犠牲となり続いて防衛隊の兵舎である国民学校の爆破炎上し部落も大半焼失した。伊野波診療所長外十名は村役所附近の壕で待避中重症を負ふた。 空襲は一時止んだ。住民は事前に構築してある谷間の待避所へと避難を急いだ。平素の防空訓練も実戦には全く駄目であった。明けて二十四日、二十五日も空襲は続き美しき山河は火の海と化し、夜空を真赤に染めた。永年住みな {(引用者注)奈の仮名}れた故里も今は戦場と化したかと思へば涙すら出ない程であった。 同三月二十五日未明米軍は艦砲の援護射蟹の下に阿嘉島に上陸を開始したが間もな {(引用者注)奈の仮名}く慶良間海峡に潜水艦を伴った艦隊が浸入し如何にも日本軍を見くびったかの如く悠々と投錨し渡嘉敷陣地を攻撃し、山谷や部落はまたヽく間に昔日の面影を止めざる焼土と化した。午後後十一時赤松隊長は特幹隊員に出撃準備の令命を発した。 夜空に敵艦砲の落下もものかわと防衛隊七十余名、男女青年団員一〇〇名壮年団員三〇名、婦人会四十名が軍に協力、舟艇百隻は待避壕より引き出され二十六日午前四時渡嘉志久、阿波連の海辺に勇姿を揃へた。気の早い元気旺盛な特幹隊員は勇躍乗船しヱンヂンの音も高々と敵艦撃沈に心を躍らせて出撃の命令を今かヽヽと待っていた。 防衛隊員新城信平上等兵以下八名は機関銃をかヽえ援護射撃の陣地へついた。東の空は白みつつあり出撃の機を失しつヽありな {(引用者注)奈の仮名}がら赤松隊長は出撃命令を下さず壕の奥に待避し戦闘意識を全く失っていた。 百隻の舟艇は出撃の勇姿を揃へたまヽ夜明けとな {(引用者注)奈の仮名}り敵グラマン機の偵察に会った。隊長赤松大尉は何を考へてか、或は気が狂ったのか。全舟艇破壊を命令した。特幹隊員は呆然としていたが。上官の命令に抗することも出来ず既に出撃の機は失したるため、隊員は涙を呑んで舟艇の破壊を実施した。舟艇を失った特幹隊員は本来の任務を全く捨て、かねて調査済みの西山の奥深く待避し赤松隊の生き伸ぴ作戦が始まった。陸士出の大尉赤松は完全に卑怯者の汚名を着せられた。 船舶団長三宅少佐も座間味島を抜け出し赤松大尉と行動を共にした。 同三月二十六日敵は海空援護射撃の下に渡嘉志久、阿波連より上陸を開始した。が赤松隊は応戦の意志は勿論、武器、弾薬を放棄し隊長以下全将兵の生き伸び作戦が西山陣地に於て始められ敵は完全にこの島を無血占領した。 同三月二十七日 夕刻駐在巡査安里喜順を通じ住民は一人残らず西山の軍陣地北方の盆地に集合せよとの赤松隊長の命令が伝達された。その夜は物凄い豪雨であった。米軍の上陸は住民に生きるに安全な {(引用者注)奈の仮名}場所を失はしめ、ひたすらに頼るは赤松隊のみである。ハブの棲む真暗な山道を猛雨と戦いつヽ、子を持つ親は背に嬰児を負い、三ツ児の手を引き、合羽の代りに叺や莚を覆ひ、老人の足を助けながら砲弾の中を統制もなく西山へたどりついた。雨の谷間は親子、兄弟を見失った人々の叫声がこだまし、全く生地獄の感である。西山の軍陣地へたどりついた住民は兵事主任新城真順をして結集場所を連絡せしめた。赤松隊長は意外にも住民は軍陣地外へ徹退せよとの命令である。 同三月二十八日午前十時住民は涙を呑んで軍の指示に従い軍陣地北方の盆地へ集った。その頃島を占領した米軍は友軍陣地北方百米の高地に陣地を構え完全に包囲体型を整え迫撃砲を以て赤松陣地に迫り遂に住民の退避する盆地も砲撃を受けるに至った。危機は刻々に迫った。事こヽに至っては如何ともし難く全住民は皇国の万才と日本の必勝を祈り笑って死なうと悲壮な決意を固めた。かねて防衛隊員に所持せしめられた手榴弾各々二個が唯一の頼りとなった。 各々親族が一かたまりになり一発の手榴弾に二、三十名が集った。手榴弾がそこ、こヽで発火したかと思ふと轟然たる無気味な音は谷間を埋め、瞬時にして老幼男女の肉は四散し、阿修羅の如き阿鼻叫喚の地獄が展開された。死にそこなったものは梶棒で頭を打ち合ひ、剃刀で自らの頸部を切り、鍬で親しい者の頭をたヽき割る等世にもおそろしい情景が繰り拡げられ、谷川の清水は血の流れと化した。一瞬にして三二九人の生命を奪った。その憎みの盆地を村民は今なお玉砕場と呼んでいる。手榴弾不発で死をまぬかれた者は軍陣地へと押しよせた。赤松隊長は壕の入口に立ちはヾかり軍の壕へ入ってはいけない速に軍陣地を去れと厳しく構え住民を睨みつけた。 住民はすごヽヽと軍陣地東方の盆地に集り一夜を明した。 同二十九日米軍の迫撃砲は執拗にも集民待避の盆地へ飛来し住民三十二名の命を奪ひ去り防衛隊数名の戦死者を出した。 同三十一日米軍は赤松隊の兵力を見くぴったか夜半島を徹 ママ 退した。空襲も止み生き延びた住民は張りつめた気力を失ひ五日間の空腹に夢遊病の如くさまよい歩む足どりもふらヽヽと浮いていた。死場所を失った住民は迷い歩いた揚句僅かな食糧を残して置いたもとの避難地恩納河原へ集った。 赤松隊も持久態勢に入り食糧確保に奔走した。 間もなく赤松隊長からの命令が伝達された。我々軍隊は島に残って凡ゆる食糧を確保し持久態勢を整へ上陸軍と一戦を交えねぱならぬ、事態はこの島に住むすべての人間に死を要求していると主張し住民に家畜屠殺禁止の隊長命令が出され違反者は銃殺といふ厳しい示達である。直ちに住民監視の前哨線が設けられ多里少尉がその任についた。 住民の座間味盛和にスパイの嫌疑をかけ、無実の罪におとし入れ斬り殺したのも多里少尉である。 亦家族の全部を失って山をさまよい歩く古波蔵樽を之敵に通ずる恐れありと高橋伍長の軍刀にかける等住民に対する残虐行為がはじまった。 海峡には敵飛行艇百五十隻が常駐、駆逐艦十数隻、小型空母等が周辺に停泊していた。その他艦船を含む船舶の数は三〇〇隻を下ったことはない。 時々友軍特攻隊の攻撃もあったが敵対空砲火には抗し難く火を吐き海中に落下する尊い姿も見られた。 同 四月下旬頃から軍民共に飢饉にひんし、蘇鉄の切干に野草を混じた代用食で露命をつないだ。 元気の者は監視の眼を逃れて島の各所から蘇鉄を集めた。生き残った防衛隊員は軍の命により防衛隊長屋比久孟祥の指揮で軍の食糧獲得に努力した。 同五月初旬軍は遂に住民の保有している僅かな非常食糧の供出を強要し朝鮮人軍夫をして食糧を徴集せしめた。住民は急激に老、幼男女の栄養失調が続出し生き延ぴて無甲斐さを感ずる者もあった。気力ある者は夜間海岸に出で、米艦船から捨てられた肉切れや、果物の標流物を探し求めて食糧の足しにした。座間味島を逃れて赤松大尉と行動を共にした三宅少佐は危険の多いこの島を脱出し沖縄本島へ抜け出すことを考へ絶えず機会をねらっていた。防衛隊員の中から割舟に経験のある者の調査が行われた。この時の白羽の矢が防衛隊員小嶺賀牛、玉城定夫の両名に当った。本人達は希望する所でなかったが軍命であれぱ致し方なく決死行の意を固めた。 刳船は三宅少佐外三名の軍人を乗せ漕手の糸満漁夫二名と共に渡嘉敦港を出発した。 静かな海峡を敵艦艇の監視綱をくぐり、四哩の海路を見事前島部落へ辿りついた。 前島北方海岸に刳舟をかくし上陸して見ると住民の姿は見受けられない。その夜も沖縄本島への砲撃は寸時も止まぬ照明弾の合間に砲声は十六哩の海をこえて耳をつんざく有様である。夜は明けて昼の沖縄本島を望めぱ無事目的を達することは到底望めない。然し少佐は万難を排して決行せよとのことである。宵暗と共に前島を出発したが掃海艇の讐戒厳しく二回、三回と失敗を操り返し命からヾヽ引返した。鈴木少佐は舟長小嶺賀牛を呼ぴ出し言葉厳しくなじった。小嶺は慎重を期せねぱ目的達成はおぼつかないと答へると少佐は激昂し軍刀を握って睨んでいる。切るなら切れと前に迫ると少佐は何を考えてか平静に返った。今こヽで切っては勿論目的達成が出来ないことを知ったのであらう。漕き手は疲れ切って精一杯だった。遂に最後の決死行に意を決し再ぴ前島を後にした。輻輳する艦船の横腹を手操りつヽスクリューの波に巻込まれながら遂に神山島北方へ出た。暗夜に乗じて那覇へ向けたが掃海厳しく接岸不能である。合議の上、舟首を糸満港へ向けた。東天は既に夜明けを知らせつヽあり島伝ひに力漕し糸満港は目前に迫った。夜明けにあせりながら必死に力漕し遂に糸満港についた。一人の負傷者もいない全員無事を喜びながら疲れも忘れて真玉橋の部隊本部へと急いだ。 同五月初旬米軍は再び渡嘉敷を占領した。赤松隊へ備へて各高地に砲陣地が構築された。間もなく伊江島住民が渡嘉敷部落へ移動され、米軍の保護下で収容された。赤松隊は極度に食糧欠乏し若い下士官や将校は夜間切り込みと称して米軍食料集積所を襲ひ食料、煙草等を確保する様になった。そのために米軍は各要所に地雷を施設した。鈴木、小松原両少尉はその犠牲となった。 伊江島住民は米軍の保護を受けつヽ渡嘉敷部落の焼け残った家屋で生活していた。 米軍の要求により伊江島住民から選ぱれた若き青年男女六名が赤松隊へ派遣された。それは戦争が既に日本の不利であり降伏することが最も賢明な策であることを伝へるためであったが赤松隊長は頑固として聞き入れず六名の者を斬殺した。亦集団自決に重傷を負ひ米軍に収容された十六才の少年小嶺武則金城幸二郎の両名は米軍の治療を受け、やうやく依復したので米軍の指示に従い、渡嘉敷住民への連絡のため避難地へ遺けられた。目的は住民へ早く下山する様伝へるためであったが途中赤松隊の将士は二人を捕へ米軍に通じた理由のもとに之は処刑した。 渡嘉敷小学校訓導大城徳安氏は敵に通ずるおそれありと斬首された。かくして住民は日々欠乏する食糧と赤松隊の恐喝に益々くたぱるのみであった。食ふに糧なく下山に方途なく栄養失調は続出する有様である。 飢餓と戦ひつヽ六月、七月のニケ月を過し八月を迎へたが食糧は欠乏の極に達し住民は死の寸前にさらされた。 同八月十二日、午前自決場で妻を失ひ幼児二人を抱へた郵便局長徳平秀雄氏は長女を背負い、長男の手を引き住民十五名と共に食を求めて山谷を移動中、米軍の潜伏斥侯四十数名に包囲され拉致された。これが住民下山の第一歩となった。 同八月十五日米軍機から赤松隊陣地ヘビラが撒かれた。ボツダム宣言の要旨が述べられ降伏は矢つき刀折れたる者のとるべき賢明な途だと勧告してあった。住民は集団投降の意を固め代表者を選んで村長古波蔵惟好氏と相談した。村長も民意の趣むく所止むなくこれを許し住民は八月十五日迄に殆んど下山した。 同八月十六日防衛隊員と残った一部住民が下山したが赤松隊は依然として投降せず米軍の指示により渡嘉敷住民の中から軍使として出すことになり、新垣重吉、古波蔵利惟、与那嶺徳、大城牛の四名が選ぱれた。軍使としての任は勿論赤松隊への投降勧告であるが一旦見付かれぱ死を覚悟せねぱならない。新垣、古波蔵は軍隊生活の経験あるため、勧告文を木の枝に縛り付け密に任を果した。与那嶺、大城の両名は要領得ずして、赤松隊に捕へられ即座に切り捨てられた。 同八月十八日赤松隊知念副官が軍使として米軍に投降の交渉に当った。 同八月十九日赤松隊長、知念副官、外将校一名が米軍本部へ到着、渡嘉敷小学校々庭に於て武装を解除され、降伏文に調印した。次いで西村大尉の率いた赤松隊将兵は戦死した戦友の遺骨を先頭に二十二日渡嘉敷校々庭に集合し武装を解除され間もなく沖縄本島へと出発した。 総べての力を結集し、あらゆる食糧を確保し持久態勢を整へ米軍と一戦を交へ、皇国のために全員玉砕渡嘉敷島に屍を曝すと剛語した赤松隊も米軍の鉄量には抗すべくもなく牧牛の如く連れ去られたかと思ふと一掬の涙を催すものがあった。 斯くして本島作戦と切り離されていた島の戦線は独得の様相と経路を辿りつヽ沖縄本島の降伏に遅れること一ケ月昭和二十年八月二十三日その幕を閉じた。 最後に特筆すべきは三月二十七日渡嘉志久道路上で米軍と遭遇し激戦の後、伊芸山山頂で護国の花と散った佐藤小隊の一事である。(完) 『渡嘉敷島における戦争の様相』と『慶良間列島渡嘉敷島の戦闘概要』の異同 沖縄戦資料index
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様相と概要の異同の実際 迫手門学院大手前中・高等学校 紀要第五号 1986年3月30日 『渡嘉敷島における戦争の様相』と 『慶良間列島渡嘉敷島の戦闘概要』の異同 伊敷 清太郎 伊敷論文「はじめに」に戻る 段落ごとに『様相』を黒字で、その下に『概要』を青字で記しました。 ( )付き小見出しは原論文にはなく、転載者が付けたものです。 様相と概要の異同の実際まえがき (軍部隊の進駐) (10・10空襲以降) (3・23~26米軍襲来、出撃か?) (3・27~玉砕場) (3・31~食糧難と残虐行為) (5月・刳舟脱出行) (米軍再上陸と住民処刑) (住民離脱と降伏直前の処刑) 注 まえがき 【様相】この記録は米軍上陸から赤松隊降伏までの沖縄戦の一端渡嘉敷島の一部を記録しましたが本島と切離された孤島の戦線は幾多相様を異にするものが多々あった。 【概要】この記録は今次大戦における沖縄戦の一端渡嘉敷島における戦聞の概要を収録したのであるが 沖縄本島と切離された孤島の戦線には幾多様相を異にするものがある 【様相】当時村長古波蔵惟好氏、役所吏員防衛隊長屋比久孟祥(現生存者)等の記憶を辿って其の概要を纒めたものでありますが過去を省みて如何に戦争が罪悪であるかを吾々は実際に体験し、そして今後幾多反省すべきことがあるかを痛感した。将来に再度この様な事を繰返すことのないよう永遠に平和を愛好し人類の幸福と繁栄を自由の中に樹立して行くよう願って止まない。 【概要】当時村長米田惟好氏 役所職員 防衛隊長屋比久孟祥氏等の協力を得て纒めたものでありますが 過去を省みて如何に戦争が罪悪であるかを吾々は実際に体験し そして今後幾多反省すべきことがあること(※1)を痛感した将来この社会において再びこの様な事を繰返すことのないよう 永遠に平和を愛好し人類の幸福と繁栄を自由世界に樹立することを願って止まない 一九五三年三月二十八日渡嘉敷村遺族会 (軍部隊の進駐) 【様相】昭和十九年九月二日七千屯級の汽船が慶良間海峡、阿佐港外に停泊してゐた。その船を目標に友軍戦闘機が三機編隊で毎日急降下演習が続けられてゐる。 この汽船は兵器弾薬を南方へ輪送するものと住民は相像してゐた。 【概要】昭和十九年九月二日七千屯級の汽船が慶良間海峡、阿佐港外に停泊してゐたその船を目標に友軍戦闘機三機が編隊で毎日急降下演習が続けられていた(※2)、この汽船は兵器弾薬を南方方面へ輪送途中寄航したものと住民は想像していた。 (引用者注)阿佐港は座間味島東側の湾内 【様相】同 九月七日沖縄憲兵隊某軍曹が突然来島した。用件は渡嘉敷の漁船を軍需部の漁撈用に徴用の目的であった。 鰹漁船、嘉豊丸、源三丸、神祐丸、信勝丸の四隻は乗組員一三〇名と共に九月八日午前四時を期して阿波連港へ集結を命ぜられ同日午前十時那覇港へ出発した。 【概要】同 九月七日 沖縄憲兵隊の軍曹が来島した。その目的は渡嘉敷の漁船を軍需部の漁撈用に徴用することである。 鰹漁船、嘉豊丸、源三丸、神祐丸、信勝丸の四隻は乗組員一三〇名と共に九月八日午前四時を期して阿波連港へ集結を命ぜられ同日午前十時那覇港へ出港した 【様相】旬日を出でずして村営航路嘉進丸も軍需運搬の目的で徴用され、那覇、久米島間の輸送任務についた。軍は秘密保持のため移動性のある船舶の慶良間各港の出入を堅く禁じていた。 【概要】旬日を過ぎずして村営航路嘉進丸も軍需物資輸送の目的で徴用され那覇、久米島間の輸送任務についた、軍は秘密保持のため移動性のある船舶の慶良間各港への出入を堅く禁止した為渡嘉敷住民は全く孤立状態に置かれた、 【様相】同 九月九日午前八時南方行きと思はれた汽船から渡嘉志久に小型舟艇が近づいて来た。驚いたことには、武装した陸軍の兵隊が上陸してきたからである。或る兵に尋ねたら渡嘉敷に駐屯するとのことである。部隊は鈴木部隊で兵員一千名、基地隊と呼ぱれた。鈴木部隊は渡嘉志久に上陸を完了し渡嘉敷部落へ前進した村国防婦人会は部隊歓迎のため総動員で湯茶の接待をし軍の慰労に努めた。兵員の中には長途の輸送で疲労した為か下痢患者を続出する有様であった。部隊の宿舎には住民の住家があてがわれ、村民は部隊長鈴木少佐の要請により男子十六才から六〇才まで、女子十六才から六〇才までが部隊に協力九月十日から陣地構築作業に従事した。 【概要】同 九月九日午前八時南方行きと思ってゐた汽船から渡嘉志久に小型舟艇が近づいて来た 驚いたことは(※3)武装した陸軍の兵隊が上陸したのである。或る兵隊に尋ねたら渡嘉敷駐屯するとのことである 部隊は鈴木部隊で兵員一千名基地隊と呼ぱてゐた 鈴木部隊は渡嘉志久へ上陸を完了し同日渡嘉敷部落へ移動した、村の国防婦人会は部隊歓迎のため総動員で湯茶の接待や慰労に努めた、 兵員の中には長途の輸送で疲労した為に数多くの下痢患者(※4)を続出する有様であった、部隊の宿舎には住民の住家があてがわれた早速鈴木少佐の要請により男女十六才から六〇才までが軍に協力することになり九月十日から陣地構築作業に従事せしめられた、 (引用者注)7,000トンもの大型輸送船が突然やってきたとは驚きです。1千名もの海上挺進第三基地大隊の将兵を、沖合い停泊で1週間も待たせ、泥縄の上陸準備をした上で、渡嘉敷島西側の渡嘉志久に上陸してきたということです。この部隊はいったいどこで編成され将兵はどこから乗船してきたのでしょうか? 【様相】同 九月二十日特幹船舶隊と称する部隊が赤松大尉を隊長とし兵員一三〇名と舟艇百隻をもって来島渡嘉志久と阿波連に駐屯し日夜猛烈な攻撃演習が秘密裡に行われていた。 数日後徴用された漁船は漁業の根拠地を渡嘉敷港に変更された為、全漁船帰港連日鰹漁業に従事軍需獲得に従事した。 【概要】同 九月二十日、特幹船舶隊と称する部隊が赤松大尉を隊長とし兵員一三〇名と舟艇百隻を以って来島 渡嘉志久と阿波連に駐屯し日夜攻撃演習が秘密裡に行われていた。 数日後には本村から徴用された漁船は漁業根拠地を渡嘉敷港に変更された為全船帰港し連日軍の需要獲得に従事した、 (引用者注)赤松大尉を隊長とした海上挺進第三戦隊の訓練、編成、移動の経緯は、赤松資料:「戦史資料 昭和二十一年一月九日調整」参照のこと (10・10空襲以降) 【様相】同 十月十日那覇上空は爆音と共に平素と異った様子が見られた。時には高射砲の弾雲も見受けられるので鈴木部隊本部に問ひ合わすと友軍の対空射撃演習だとのことで村民は安心して何時もの通り陣地作業へついた。漁撈班においても嘉豊丸は出漁し源三丸神祐丸は港内に繋留してゐた。その頃前島前方の上空では数百の飛行機が乱舞してゐたが間もなく八千米の上空に四機編隊の銀翼が見られ異様な爆音に不案を抱きながら眺めてゐると飛行機は機首を下げて底空すると同時にダヾヽヽと機銃掃射を始めた。はじめて敵機の空襲と知り村民は上を下への大混乱に陥った大人は陣地作業のため留守であり老人は幼児をかヽえ教員は学童の手を引き右往左往待避に長時間を要した 【概要】同 十月十日那覇上空は、絶好の秋日和である慶良間から沖縄本島が手に取る様に見渡しことができる 午前九時頃平素と異った様子が見受けられた、時には高射砲の弾雲が見られるので鈴木部隊本部に問い合すと友軍の対空射撃演習だとのことである、 村民は安心して平素のように陣地構築に従事した、 漁撈班においても嘉豊丸が出漁した、源三丸神祐丸、が出漁準備を整えている頃前島前方の上空で数百の飛行機が乱舞するの(※5)が見られたかと思うと間もなく八千米の上空に四機編隊の銀翼が現れた、何時もとは異った爆音に不案を抱き乍ら眺めていると 飛行機は機首を下げて底空すると(※6)同時にダヽヽヽと機銃掃射が始まった はじめて敵機の空襲と知った村民は足の踏み場を知らず上を下への大混乱に陥った、殆どの大人が陣地構築のため留守である、老人は幼児をかヽえ教員は学童の手を引き右往左往(※7)であるために待避に長時間を要した 【様相】敵機の空襲は益々猛烈を極め機銃掃射と共に小型爆弾が投下され、何回となく波状空襲が繰り返へされた。 嘉豊丸は東海岸で餌料採捕中、爆沈され、機関長古波蔵鉄彦氏は戦死し、他の乗組員はかろうじて生命を得た。源三丸、神祐丸、は港内に於て炎上沈没し軍用船(えぴす丸)も港内待避中爆破され、戦死者二名を出した。村営航路嘉進丸は軍需物資輸送久米島からの帰途渡名喜島沖合で空襲を受け撃沈され機関長金城連平事務長小嶺賀明の命を奪った。船長古波蔵良秀は三日漂流の後渡名喜島へ上陸生還した。全漁船を失った乗組員は翌日から陣地構築作業に従事すると同時に各高地に設けられた軍監視哨勤務につき、日夜軍に協力した。状況は日毎に悪化し島の東海岸には暗夜に乗じ接近浮上した敵潜水艦の姿が度々見受けられた。 【概要】敵機の空襲はますヽヽ猛烈を極め機銃掃射と共に小型爆弾が投下された、幾度となく波状空襲が繰返へされる中に嘉豊丸は東海岸で餌料採捕中に爆沈され機関長古波蔵鉄彦は戦死し他の乗組員は辛うじて生命を得ることができた、 源三丸神祐丸は出漁することができず港内において炎上沈没し軍用船(えぴす丸)も爆破炎上し二名の戦死者を出した 村営航路嘉進丸は軍需物資を輸送しての久米島からの帰路、渡名喜島沖合で空襲を受け撃沈され 機関長金城連平、事務長小嶺賀明の命を奪った、船長古波蔵良秀は三日間漂流の末渡名喜島へ辿り着き生還した、 全漁船を失った乗組員は翌日から陣地構築作業に従事する者や各高地に設けられた監視哨勤務等日夜軍務に就くことになったが 状況は日毎に悪化し島の東海岸には暗夜に乗じ敵潜水艦の接近浮上する姿が度々見受けられるようになった (引用者注)10.10空襲で全漁船を失ったとは驚く。島は産業を失ったに等しい。情報の入手ができない完全に孤立した存在となった。以後物資は軍の補給に頼ったのだろうか。しかし軍の物資補給がやがてなくなれば、駐留部隊の将兵の分まで細々と自活を強いられる村民に負担がのしかかる。 【様相】同十月下旬、 今まで自家通勤で軍陣地作業に従事していた村民に防衛隊として七十九名の召集が下令された。兵舎には村の国民学校が充てられ初年兵勤務が続けられたが教練ではなく壕掘作業に従事し、昭和二十年の元旦を兵舎で迎えた。 【概要】同十月下旬 今まで自家通勤で陣地作業に従事してゐた、七十九名の者に防衛隊としての召集が下された、兵舎には村の国民学校が充てられ(※8) 初年兵勤務が始められたが(※9)教練訓練ではなく専ら壕掘作業に従事せしめられ 昭和二十年の元旦を兵舎で迎えた (引用者注)渡嘉敷島の防衛召集について明確な表現がなされている。召集された防衛隊員は正式な軍人=二等兵として入営したのである。 【様相】サイパン島陥落後状況は益々悪化し、沖縄部隊へ入隊する現役兵を送り出すにも困難を極めた。学童も率先して軍に協力し婦人会、青年団員も軍の炊事班に徴用された。その頃軍の防衛陣地及壕は大方完成し舟艇の待避壕も完成、海辺に至る枕木も敷設を終へ舟艇百隻は橇の上に乗せられ出撃の準備は全く完了した。 【概要】サイパン島陥落後戦況は益ヽ悪化し、沖縄部隊へ入隊する現役兵の送り出しにも困難を極めた 学童も率先して軍の作業従事し 婦人会や女子青年会員は軍の炊事班に徴用された、 いよヽヽ軍の防衛陣地や壕も大方完成し舟艇の待避壕や海岸に至る枕木も施設も終へ舟艇百隻は橇の上に乗せられ出撃の準備は完了した。 【様相】昭和二十年二月下旬 渡嘉敷島の陣地構築は殆んど完成したが基地隊である鈴木部隊は整備中隊と通信隊の一部及赤松隊特幹隊を残し、沖縄本土防衛のため島尻地区へ移駐した。それと前後し水上勤務中隊と称する朝鮮人軍夫三百二十名が楠原中尉を隊長として来島し、その任務についた。鈴木部隊移駐後は村出身の防衛隊員は赤松隊長の指揮下に属した。 【概要】昭和二十年二月下旬 渡嘉敷島の陣地構築が完成すると間もなく基地隊である鈴木部隊は整備中隊と通信隊の一部(※10)と赤松隊長が率いる特幹隊を残して沖縄本島防衛のため島尻地区へ移動のであるが これと前後して水上勤務中隊と称する朝鮮人軍夫二二○名が楠原中尉を隊長として来島し任務についた、 鈴木部隊移動後 村出身の防衛隊員は赤松隊長の指揮下に属した、 (引用者注)「村出身の防衛隊員は赤松隊長の指揮下に属した」という表現は、軍隊組織としては当然のこと(赤松元戦隊長自身も自認している)。しかし集団自決裁判の原告とその代理人弁護士或いは秦郁彦氏などは、防衛隊があたかも戦隊とは指揮命令系統が違う「民兵」であるかのような荒唐無稽な主張をしている。 (3・23~26米軍襲来、出撃か?) 【様相】同 三月二十三日午前五時空襲讐報が発令された。事態は悪化し早朝からグラマン機の波状空襲が間断なく燥り返された。 B二十九と思われる大型機の編隊も再三飛来し爆音は山谷にこだまし、耳をつんざく凄しさである。午前八時半村役所、郵便局が犠牲となり続いて防衛隊の兵舎である国民学校の爆破炎上し部落も大半焼失した。伊野波診療所長外十名は村役所附近の壕で待避中重症を負ふた。 【概要】昭和20年三月二十三日午前五時空襲讐報が発令された、事態は愈々悪化し早朝からグラマン機の波状攻撃が間断なく続けられた B二九と思われる大型機の編隊も再三飛来し爆音は山谷にこだまし耳をつんざく凄しさ(※11)である。午前八時半村役所郵便局が爆撃され 続いて防衛隊の兵舎である国民学校が爆破炎上した村民の住家も大半焼失した 伊野波診療所長外十名は村役所附近の壕に待避中至近弾のために重症を負ふた。 【様相】空襲は一時止んだ。住民は事前に構築してある谷間の待避所へと避難を急いだ。平素の防空訓練も実戦には全く駄目であった。明けて二十四日、二十五日も空襲は続き美しき山河は火の海と化し、夜空を真赤に染めた。永年住みな{(引用者注)奈の仮名}れた故里も今は戦場と化したかと思へば涙すら出ない程であった。 【概要】空襲が一時止んだので住民は兼ねて構築した谷間の待避所へ避難を急いだ 平素の防空訓練も実戦にはその甲斐なく 敵機の独占場となり明けて二十四日 二十五日も空襲は続き美しき緑の山河は火の海と化し 夜空を真紅に染めた、 祖先伝来幾百年住みついた吾が郷里も今は戦場と化したことを思う時唯胸に迫るものを感じ涙さえ出すことの出来なものがある(※12) 【様相】同三月二十五日未明米軍は艦砲の援護射蟹の下に阿嘉島に上陸を開始したが間もな{(引用者注)奈の仮名}く慶良間海峡に潜水艦を伴った艦隊が浸入し如何にも日本軍を見くびったかの如く悠々と投錨し渡嘉敷陣地を攻撃し、山谷や部落はまたヽく間に昔日の面影を止めざる焼土と化した。午後後十一時赤松隊長は特幹隊員に出撃準備の令命を発した。 夜空に敵艦砲の落下もものかわと防衛隊七十余名、男女青年団員一〇〇名壮年団員三〇名、婦人会四十名が軍に協力、舟艇百隻は待避壕より引き出され二十六日午前四時渡嘉志久、阿波連の海辺に勇姿を揃へた。気の早い元気旺盛な特幹隊員は勇躍乗船しヱンヂンの音も高々と敵艦撃沈に心を躍らせて出撃の命令を今かヽヽと待っていた。 【概要】三月二十五日(※13)未明米軍は阿嘉島に上陸を開始したが間もな く慶良間海峡には潜水艦を伴った艦隊が浸入し如何にも友軍を見くびったかの如く悠々と投錨し渡嘉敷陣地への攻撃を開始し またヽく間に山谷や部落は昔の面影を止めざる焼土と化した、 午後後十一時赤松隊長は特幹隊員に出撃準備の命令を発した 夜空に敵艦砲の落下も、ものかわと防衛隊員七十余名、男女青年団員百余名壮年団員、婦人会約七十名が協力し、舟艇百隻は待避壕から引き出され 二十六日午前四時渡嘉志久、阿波連の海岸にその勇姿を揃へることができた 気の早い元気旺盛な特幹隊員の中には勇躍乗船しエンヂン音も高々と敵艦撃沈に胸を躍らせ出撃の命令をいまかヽヽと待った(※14)ゐた (引用者注)出撃準備は島民も総動員であったことがわかる。曽野綾子『ある神話の背景』では、島民の奮闘はボヤケた表現だ。 【様相】防衛隊員新城信平上等兵以下八名は機関銃をかヽえ援護射撃の陣地へついた。東の空は白みつつあり出撃の機を失しつヽありな{(引用者注)奈の仮名}がら赤松隊長は出撃命令を下さず壕の奥に待避し戦闘意識を全く失っていた。 百隻の舟艇は出撃の勇姿を揃へたまヽ夜明けとな{(引用者注)奈の仮名}り敵グラマン機の偵察に会った。隊長赤松大尉は何を考へてか、或は気が狂ったのか。全舟艇破壊を命令した。特幹隊員は呆然としていたが。上官の命令に抗することも出来ず既に出撃の機は失したるため、隊員は涙を呑んで舟艇の破壊を実施した。舟艇を失った特幹隊員は本来の任務を全く捨て、かねて調査済みの西山の奥深く待避し赤松隊の生き伸ぴ作戦が始まった。陸士出の大尉赤松は完全に卑怯者の汚名を着せられた。 【概要】防衛隊員新城信平上等兵以下八名は機関銃をかヽえて援護射撃の陣地についた、 東の空は白みつつあり出撃の機を失ひつヽありながら赤松隊長は出撃命令を下さず 壕の奥深く待避したまヽ全く戦闘意識を全く失ったかに思われ百隻の舟艇は出撃の勇姿を揃へたまヽ夜明けとなり敵グラマン機の偵察に会った、 隊長赤松大尉は何を考へたか まるで気でも狂ったのか 突然全舟艇破壊命令を下した 特幹隊員はたヾ呆然としてゐたが 至上命令に抗することも出来ず既に出撃の時期を失しては如何ともし難く隊員は涙を呑んで舟艇の破壊を実施した 舟艇を失った特幹隊員は本来の任務を完うすることができない為 兼ねて予定された西山の奥深く待避し赤松隊の持久作戦が始まったのであるが 陸士出の赤松隊長は卑怯者の汚名を着せられても致し方ない状況である (引用者注)出撃準備に総動員で協力奮闘しただけに、出撃中止は島民にとっても大きな落胆だったのだろう 【様相】船舶団長三宅少佐も座間味島を抜け出し赤松大尉と行動を共にした。 【概要】当時船舶団長三宅少佐も座間味村を抜け出し渡嘉敷へ退避し赤松隊長と行動を共にした (引用者注)船舶団長は大町茂大佐。随行者に三池少佐という人物がいて彼は渡嘉敷島からの脱出に失敗して赤松大尉と同道してたので勘違いしたのだろう。部隊幹部の名前は島民らには知らされてないようだ。 【様相】同三月二十六日敵は海空援護射撃の下に渡嘉志久、阿波連より上陸を開始した。が赤松隊は応戦の意志は勿論、武器、弾薬を放棄し隊長以下全将兵の生き伸び作戦が西山陣地に於て始められ敵は完全にこの島を無血占領した。 【概要】昭和二十年三月二十六日 敵は海空援護の下に渡嘉志久 阿波連より上陸を開始したが(※15)赤松隊は応戦の意志は勿論なく、武器 弾薬を放棄したまヽ隊長以下全将兵が西山陣地に引っ込んた為敵は完全にこの島を無血占領することになった、 (3・27~玉砕場) 【様相】同三月二十七日 夕刻駐在巡査安里喜順を通じ住民は一人残らず西山の軍陣地北方の盆地に集合せよとの赤松隊長の命令が伝達された。その夜は物凄い豪雨であった。米軍の上陸は住民に生きるに安全な{(引用者注)奈の仮名}場所を失はしめ、ひたすらに頼るは赤松隊のみである。ハブの棲む真暗な山道を猛雨と戦いつヽ、子を持つ親は背に嬰児を負い、三ツ児の手を引き、合羽の代りに叺や莚を覆ひ、老人の足を助けながら砲弾の中を統制もなく西山へたどりついた。雨の谷間は親子、兄弟を見失った人々の叫声がこだまし、全く生地獄の感である。西山の軍陣地へたどりついた住民は兵事主任新城真順をして結集場所を連絡せしめた。赤松隊長は意外にも住民は軍陣地外へ徹退せよとの命令である。 【概要】昭和二十年三月二十七日 夕刻駐在巡査安里喜順を通じ住民は一人残らず西山の友軍陣地北方の盆地へ集合命令が伝えられた、その夜は物凄い豪雨である 米軍の上陸は住民に生きのびる場所を失わしめ ひたすら頼るは赤松隊のみであると信じ ハブの棲む真暗な山道を豪雨と戦いつヽ 子を持つ親は嬰児を背に負い 三ツ子の手を引づりながら合羽の代りに叺や莚をまとい 老人の足を助け乍ら弾雨の中を統制もなく西山へたどり着いた、暗闇の谷間は親、兄弟を見失った人々の呼び声がこだまし、全く生地嶽(※16)の感である 間もなく兵事主任新城真順をして住民の結集場所連絡せしめたのであるが 赤松隊長は意外にも住民は友軍陣地外(※17)へ徹退せよとの命令である 何の為に住民を集結命令したのかその意図は全く知らないまヽに恐怖の一夜を明かすことが出来た 【様相】同三月二十八日午前十時住民は涙を呑んで軍の指示に従い軍陣地北方の盆地へ集った。その頃島を占領した米軍は友軍陣地北方百米の高地に陣地を構え完全に包囲体型を整え迫撃砲を以て赤松陣地に迫り遂に住民の退避する盆地も砲撃を受けるに至った。危機は刻々に迫った。事こヽに至っては如何ともし難く全住民は皇国の万才と日本の必勝を祈り笑って死なうと悲壮な決意を固めた。かねて防衛隊員に所持せしめられた手榴弾各々二個が唯一の頼りとなった。 【概要】昭和二十年同三月二十八日午前十時頃住民は友軍の指示に従い軍陣地北方の盆地へ集ったが島を占領した米軍は友軍陣(※18)北方の約二、三百米の高地に陣地を構へ完全に包囲態勢を整え 迫撃砲をもって赤松陣地に迫り住民の終結場も砲撃を受けるに至った 時に赤松隊長から防衛隊員を通じて自決命令が下された、 危機は刻々と迫りつヽあり 事こヽに至っては如何ともし難く全住民は陛下の万才と皇国の必勝を祈り笑って死なう(※19)と悲壮な決意を固めた、 かねて防衛隊員に所持せしめられた手榴弾各々二個が唯一の頼りとなった 【様相】各々親族が一かたまりになり一発の手榴弾に二、三十名が集った。手榴弾がそこ、こヽで発火したかと思ふと轟然たる無気味な音は谷間を埋め、瞬時にして老幼男女の肉は四散し、阿修羅の如き阿鼻叫喚の地獄が展開された。死にそこなったものは梶棒で頭を打ち合ひ、剃刀で自らの頸部を切り、鍬で親しい者の頭をたヽき割る等世にもおそろしい情景が繰り拡げられ、谷川の清水は血の流れと化した。一瞬にして三二九人の生命を奪った。その憎みの盆地を村民は今なお玉砕場と呼んでいる。手榴弾不発で死をまぬかれた者は軍陣地へと押しよせた。赤松隊長は壕の入口に立ちはヾかり軍の壕へ入ってはいけない速に軍陣地を去れと厳しく構え住民を睨みつけた。 住民はすごヽヽと軍陣地東方の盆地に集り一夜を明した。 【概要】各々親族が一かたまりになり一発の手榴弾に二、三十名が集った、 瞬間手榴弾がそここヽに爆発したかと(※20)思ふと轟然たる無気味な音は谷間を埋め 瞬時にして老幼男女の肉は四散し 阿修羅の如き阿鼻叫喚の地獄が展開された 死にそこなった者は梶棒で頭を打ち合い 剃刀で自らの頸部を切り 鍬や刀で親しい者の頭をたヽき割る等世にも おそろしい情景がくり拡げられた 谷川の清水はまたヽくまに血の流れと化した 寸時にして三九四人(※21)の生命が奪い去られた、 その憎みの盆地を村民は今なほ玉砕場と呼んでいる、 手榴弾不発で死をまぬかれた者は友軍陣地へ救いを求めて押しよせた時 赤松隊長は壕の入口に立ちはヾかり軍の壕は一歩も入ってはいけない、速に軍陣地近郊(※22)を去れと厳しく構へ住民をにらみつけた 住民は致し方なくすごヽヽと友軍陣地東方盆地に集ひ無意識の一夜を過ごした 【様相】同二十九日米軍の迫撃砲は執拗にも集民待避の盆地へ飛来し住民三十二名の命を奪ひ去り防衛隊数名の戦死者を出した。 【概要】昭和二十年三月二十九日、 米軍の砲撃は執拗にも住民待避の盆地へ飛来し住民三十二名の命を奪い去ると共に防衛隊数名の戦死者を出した。 (3・31~食糧難と残虐行為) 様相と概要の異同の実際(続)へ (5月・刳舟脱出行) 様相と概要の異同の実際(続)へ (米軍再上陸と住民処刑) 様相と概要の異同の実際(続)へ (住民離脱と降伏直前の処刑) 様相と概要の異同の実際(続)へ 注 注へ 戻る
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和田さんスペース 12月1日記(※) 和田さんの為に2回限定でスペースを提供します。おそらく、1回で1000字×10回分以上は有ると思います。その2回分です。誰かに議論を吹っかけたり、余所へ行って呼び込みをなさるのは困ります。管理上のコメントがある場合は、投稿欄の外に書きますのでご了承ください。 (何度も申上げていますが、ご自分のサイトを設けてご持論を発表するのが最善です。そのための準備の一環として御使いいただければ幸いです。) ※日付のみ追記 和田さんへ 1月29日 よくよく考えて、私やKさんへのカラミの部分を削除させていただいて、再掲載することにしました。 カラミは、ここをご提供する主旨に反するからです。ここをご提供するということは不特定多数への発表ですから読者は私と和田さんとの論争の経緯など、知るよしもありません。読者にわからないだけでなく、ただただ紛糾だけが印象に残るものは避けねばなりません。 重複投稿が繰り返されていましたので、1つにしました。不具合がありましたらお知らせください。原稿の差し替えご希望もおしらせください。 和田さんの論稿 石田四郎の手記も私にとっては赤松等の嘘の証拠でしかなかった。戦史叢書は大町大佐一行の構成を隠している、恐らく目的も隠しているに違いない、この期に及んで出撃準備をしない船舶特攻隊のトップなどあるのか-それが石田手記を最初に読んだ率直な感想だった。 石田手記では大町大佐が阿嘉島から渡嘉敷ではなく沖縄本島へ帰還を目指していたと記述されていることは、曽野綾子のいう「視察」は嘘で慶良間の出撃に失敗したので沖縄で出撃を目指した証拠と考えた。当初、橇船の橇の字は判読出来なかった。赤松が、大町大佐は丸木舟で渡嘉敷に来たとの記述は当然嘘と思ったので、嘘を突き通すという意味においては、橇船も丸木船(クリ船)でなければならないと単純に思った。 赤松自身が一方で大町大佐はクリ船で来島したといいながら、赤松隊が別の資料で大町大佐はマルレで来島したと語るのはあまりにも不用意ではないかと思った。 しかし、これについても考えを変えた。 転機は赤松版「戦闘の概要」での5月下旬以後の爆雷訓練とか、クリ船訓練の記述が沖縄本島でマルレ消耗後のクリ船出撃命令に連動していると考えてからであった。 赤松隊は破壊されなかった無線や稲垣隊からの情報により、沖縄本島で司令部が無理を承知でマルレ全壊後もクリ船で出撃させる意向を知ることが出来る立場にいた。 もともと、赤松隊は軍に媚びへつらい、自ら戦闘準備に抜かりがなかったようにアリバイ作りをすることに懸命だったことが「戦闘の概要」から伝わってくる。 阿波連から皆本中隊が爆雷を運んだとの記述があるが、「戻った」との記述から運んだ場所は本部の近くであり、要するに地雷として利用したことが透けてみえる。防衛省が保有する陣中日誌類にははっきり戦後調整したと書かれているものがある。それはそうだろう。 降伏した日本軍の陣中日誌は米軍が取り上げる可能性が高い。 全滅を覚悟した部隊なら(米軍に機密情報を渡さないために)陣中日誌などの書類を焼却する。赤松の書いた書類とて自ら1946/3月に記載したと語っているものもある。 元の日本軍組織に陣中日誌を復元調整して渡すのであれば、口述者の軍への思惑により書かれる内容が変わるのは当然のことである。 で、私は防衛省に保管されている陣中日誌類は戦後書き直されたものが多く、全部が信用出来るものとは思っていない。http //www.okinawa-sen.go.jp/view.php?no=B0305202 たとえば、上記にもおかしな記述が掲載されている。3月27日大町大佐のマルレ出航は乗船全員の氏名と共に記載されているが、三池少佐のマルレ出航の記載がない。陣中日誌なら、夜間戦闘や夜間行軍が無い限り、その日の夜までに記載されてしかるべきだがそのような記述はない。 4月7日 土肥技術伍長那覇転進 3月27日転進し死んだはずの人物がこんな時期に記載されている。 4月14日 渡嘉敷に於て本15日午前中の爆雷運搬に赴きし第三中隊木村候補生は作戦中敵弾の為戦死す。 15日の出来事が14日に書けるはずもない。 渡嘉敷に爆雷を運搬するというのが軍に対するアリバイ作りではないのか。渡嘉敷に爆雷を集積していたとすればマルレ出撃に支障をきたす重大な手抜かりである。おそらく、早い時期から儀志布島方面へ爆雷を移動させようとしたというアリバイ作りをあせったため、日付を誤るミスを犯したものと思われる。他にも記載されていない日があまりにも多い。とても当初の陣中日誌とはいえないだろう。わずかに、第二中隊の陣中日誌は記載された日が多く時間も細かく記入されていることから陣中日誌の原型を留めている可能性が強い。 それはともかく、「ある神話の背景」での1945/3/20までの記述は異様である。まるで何の前触れもなく突然沖縄地域が戦場になるような錯覚を起こさせる記述である。事実として、米軍は九州・四国・台湾の基地航空隊を攻撃し続け、20日になって台湾爆撃が沈静化する。この時点で大本営首脳も米軍の侵攻地域は沖縄方面で早ければ4月1日にも上陸があり得ると判断したのだ。当然前線の第32軍首脳は大きな危機感に駆られたに違いない。それを察するからこそ「戦史叢書」の選者も3月20日に船舶部隊などの編成命令が出されたと推定したのだ。 現地司令部はマルレ出撃後の手配をした。 このような時期にマルレ出撃準備がなされず、視察だけを実行するというのは矛盾であり、現地司令部と大町大佐の戦術的無能を示すものでしかない。 軍事的にこの期に及んで出撃準備をしないということなどありえない。 これだけはいえるが、赤松はもちろんのこと、曽野綾子・石田四郎は大町大佐が出撃準備計画などなかったように証言・記載することによって、大町大佐の軍人としての能力をおとしめた。 赤松等が準備を怠り、出撃に失敗したことを隠すためである。1944/10/17米軍はレイテ島上陸に先立ち(3日前)、レイテ島から数十キロ離れたスルワン島に上陸した。スルワン島は渡嘉敷島と同じくらいの面積である。 その前例からして沖縄本島に上陸する前に慶良間に上陸しても不思議でもなんでもなかった。 これは軍首脳が無能だったせいだが、3月24日になっても出撃準備を進めていない赤松には「出撃したくない」という気持ちがあったのかもしれない。 当初、キー坊さんのそのような主張に賛成する気はなかったが、震洋の豊廣隊長の言動を知ればそれもあるかなと思う。クリ船に関する当初の関心は「そのころ船団長の大町大佐という指揮官が島に渡ってきていて、この人が島からクリ船で脱出する計画がからまったりしていたので、赤松大尉に出撃中止の司令軍令が下ったらしい。」という大城良平の発言が青い海に掲載された赤松や曽野綾子の会合で赤松隊の行動を正当化するため話し合われた内容ではなかろうかという推定である。 これはすごく簡便だった。赤松隊周辺にクリ船ではなく漁船という記述が複数存在した。慶良間で漁船といえば、鰹船で鰹船は早々と前年10/10米軍の爆撃で破壊されていることが判明し、さらに大城良平の証言(潮1971/11月号)より後の「ある神話の背景」連載にクリ船の話が出てくる。やはり、大城良平は曽野・赤松会談に参加していた。 赤松の関心は自決などではなかったと思う。 第三戦隊が可能な範囲で出撃しようとした、その後も爆雷運搬やクリ船訓練で出撃をあきらめなかったと軍関係者に認められたかったに過ぎない。 当初はそうしないと、敗戦のほとぼりが覚めれば旧軍関係から処罰されるかもしれないという恐怖感が支配しただろう。 しかし、60年代以降は、自分たちは靖国思想に殉じてきたと旧軍の仲間達から評価されたいためであったろう。 そのためには、事実を改竄し大町大佐の軍事的無能を浮き彫りにすることも厭わなかったわけである。 しかし、自衛隊皆本などの尽力でその企みが一応戦史叢書の記述として成功した後、赤松等の標的は自決と第三戦隊は無関係だという評価を得ることに変わった。 赤松等は住民に何らの同情も抱いてはいないが、曽野綾子が富野をして語らせるように自決を島民の殉国美談として「靖国に殉じた清らかな死」に変換しようとした。 しかし、これは二重に誤っており、第三戦隊の本心でもない。 沖縄県史「女子青年団匿名座談会」ではK即ち赤松派の古波藏蓉子がこんなことを語っている。 「K 人情も何もあったものじゃありませんでした。恩納河原を出て玉砕場へ向かっている時です。Mのお祖父さんは寒さのあまり、気絶しているのを家族は早合点して、捨てて先に行ってしまいましたが、この人が生きがえってちょうどそこを歩いていた私にとりすがってつれていってくれというのです。私は母をおんぶしているし、どうにもならないので、本部に行ったら、あなたの家族に知らせますと、別れてさっそく家族を探して、ことの次第を話したのですが、死んだ人が生きかえるはずがないとか、行くまでにまた死んでいるよ、とかいってうけあってくれませんでした。いたる所でこのようなことが起きていました。」赤松に近い立場の島民にとっても、自決とは人情も何もない醜い出来事に過ぎない。 次に、「ある神話の背景」の中で元第三戦隊隊員の谷本は元兵事主任に「渡嘉敷島の多くの島民に勲章が出た」ことをなじっている。勲章の癒し効果については実は島民も靖国思想に敗北していることは指摘しておく必要があるがそれはともかく、谷本と富野の心情に相違はないと思う。 赤松に追従する元第三戦隊の隊員にとって島民はただ、軍隊に忍従し靖国に殉ずべき土民にすぎない。 従って、軍人と同様に援護金や勲章をもらうことはけしからん、彼らの本心はその程度なのだ。 だから、狼魔人の金魚の糞のようにうろつく者達にとって原告を尊敬しない沖縄の人は見下されるべき化外の民ということになる。 だから、現在の曽野にとっても皆本・知念にとっても米軍に投降しようとした島民はスパイであり、許せないということになる。 清らかな死などというおだては、再び靖国の動物的忠誠心を要求するアメに過ぎない。 ただ、応援団の中にはそうでない者もいる。 さしずめ、徳永弁護士などはその筆頭である。彼は、レヴィ・ストロースの構造主義を引用したつもりで集団自決を「民族の叙事詩」に仕立て上げようとしている。 しかしながら、徳永の構造主義はストロースのものではない。実は徳永の構造主義はユングの集合的無意識に置き換えられている。 ユングにとって集合的無意識は生理的なものでもあり、しかもそれは遺伝するという。 神話が生成する一つの契機に生理現象があったことは確かである。 オウムの松本が継承した酸欠ヨーガは以下のようなものである。もともと、人間は臨死状態になると生理的に何とか覚醒させようと脳内物質を出す。その麻薬効果により、臨死体験をした者は一様に川叉は狭いトンネルを渡って花園に到着するという幻覚を見ることになる。 三途の川と天国だ。 もっと複雑な幻覚を見させる物質として麻薬と毒キノコがある。 代表的な毒キノコはベニテングダケで文化人類学者ワトソンによれば中央アジアに自生していたベニテングダケをソーマ酒と名づけていた。シベリアのシャーマンはベニテングタケを引用して他界に飛翔する幻覚を見ることが出来る。インド亜大陸でベニテングタケを見つけることが出来ないアーリア民族が同じ効果を持つ酸欠ヨーガを発明した。ベニテングダケやヨーガによる幻覚、他界での幻覚経験が神話形成の材料になったことは、オウム死刑囚の経験談やマックスウェーバのヨーガ分析から断言出来る。ユングはそのような生理的幻覚から生じた集合的無意識を、さらに集団的に遺伝するものとして、遺伝と文化を同一視することさえした。 ユングのオカルトに過ぎない集合的無意識の解釈に飛びついたのが日本主義者達である。 徳永その他日本のユング流構造主義者 ?にとって集合的無意識は、柳田民俗学における常民の氏神信仰のように先験的に尊重すべき、暖かい眼差しを向けるべき伝統・歴史・文化というわけである。 実際、レヴィ・ストロースは「野生の思考」の中でユングの意味の結びついた祖型が生理的根拠をもつとする考え方を厳しく批判する。 ストロースの構造とは数学的・言語的・記号的・分類的なもので行列が基本である。 そして、神話は断片的行列の再構築である。 ユングや徳永にとって神話とは、民族の使命・運命の顕現なのであろう。 ストロースにとって神話とはある種のバランス感覚から生まれる。中南米の生け贄も、自然と社会のバランス回復と考えられた。 特定の神話に普遍性・絶対性を与えることは非科学的で全人類に加害と忍従(自虐)をもたらすことになる。歴史・伝統・文化という言葉に溺れる民族的エゴイズムの残虐性(靖国思想が典型的)には常に目を光らせなくてはいけない。 -- (和田) 2010-01-26 17 35 38 名前 コメント すべてのコメントを見る